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滋賀県

滋賀県 大津市 彦根市
面積 4,000㎢
内670㎢は琵琶湖(1/6)
460㎢ 200㎢
人口 1,400,000人 340,000人 111,000人

目次


彦根

彦根城
1600年井伊直政が関ヶ原の戦いに徳川四天王(※)の1人として功をたて、この戦いに敗れた石田三成の居城佐和山城を与えられ、1601年上野の国高崎城から佐和山城へ移ってきた。
その後、直政は城を彦根山に移そうと考えたが実現せず病死。
1603年、その子直継が父直政の遺志を受けて彦根城築城に着手。
時の将軍家康は特に奉行を差し向け7ヶ国12大名にも応援させ、1622年現在の彦根城が完成。
築城開始から20年の年月を要し、城地面積25ha、周囲4km、高さ50mの彦根山に築城した平山城である。
1951年に彦根城天守閣をはじめ天秤櫓・太鼓門槽・西の丸三重櫓・佐和口多聞櫓を重要文化財に指定され、さらに1952年には天守を国宝に、1956年には彦根城一帯を特別史跡に、1963年に馬屋を重要文化財にそれぞれ指定されている。
※徳川四天王
酒井忠次…家康より年長で、三河時代から家臣団のまとめ役として支えた最古参。長篠の戦いでの武田勝頼に対する活躍が有名。
本多忠勝…「東国無双」「戦国最強」と称された猛将。生涯57度の合戦でかすり傷ひとつ負わなかったとされ、名槍「蜻蛉切」を振る。
榊原康政…若くして家康に仕え、軍事・行政の両面で手腕を発揮した知勇兼備の武将。家康の参謀として多くの戦や交渉で活躍。
井伊直政…武田家の旧臣を率いた「井伊の赤備え」を編成し、関ヶ原の戦いなどでも先鋒として大功を立てました。

二の丸佐和口多聞櫓【重要文化財】
佐和口は、中堀に開く4つの口の1つで、「いろは松」に沿った登城道の正面に位置している。
佐和口には、かつて中堀に接して高麗門があり、その内側を鉤の手に曲げて櫓門が築かれていた。
城門の形式としては最強の桝形で、重厚な構えとなっていた。

馬屋
藩主の馬などを常備した建物。
この建物はL字形をしており、佐和口門櫓に接する東側に畳敷の小部屋、対する西側近くに門がある他は、全て馬立場と馬繋場となっている。
21頭もの馬を収容する事が出来た馬屋は、更に南側に伸びていた様であるが、現在は復元されていない。
全国の近世城郭に残る大規模な馬屋として例が無く、国の重要文化財に指定されている。



玄宮園
1678年に彦根藩4代藩主井伊直興(なおおき)が整備。
1813年に第11代藩主井伊直中の隠居屋敷として再整備され今日に近い形になる。
玄宮園は魚躍沼(ぎょやくしょう)と呼ばれる広い池を中心に構成。
東部から北部に築山を配置し、池には元島や新島など4つの中島がある。
畔には臨池閣、鳳翔台、八景亭などの建物が配されている。
「玄宮園」の名は玄宗皇帝(唐時代)の離宮庭園を参考にした事に由来。
玄宮園は近江八景になぞらえられており、中の亭屋を「八景亭」と呼ぶ。 楽々園は4代藩主直興が1677年に竣工し、同七年に竣成したもので、藩士松本行右衛門の造園と伝えられている。その後七代藩主直惟の代になって、享保三年(1718年)倹約の趣旨により、園中玄関と台所などを取り払い縮小したが、文化十年(1813年)十一代藩主直中が隠居するに際し、新館を増築して移り住み、槻御殿と称した。十二代直亮、十三代直弼も数寄屋を増設し、二階建てを築いた。 これらの殿舎の東にみられる数寄屋を囲む広い庭が「槻のお庭」と呼ばれる今の玄宮園で、数寄屋造りの亭屋が八景亭である。 八景亭は1868年、彦根の紙質商、富商の安居喜八が幕府より払い下げを受けたが、1896年、再び井伊家が買い戻し、井伊家の所有のもとで料理旅館業に使用させた。 1897年、楽々園八景亭の営業をまかされていた、楽々園八景亭取締役阿知波勘次郎(湖東地方の富豪)らの申し入れにより、町が引き受けることになり、1899年から町が一括して管理することになった。 1934年から料理旅館として、営業を行なっていたが2017年11月30日廃業。