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石川県

石川県 金沢市
面積 4,000㎢ 470㎢
人口 1,000,000人 450,000人

目次


金沢

概要
江戸幕府8,000,000石を除いて大名中最大の1,025,000石を領した加賀藩(le fief)。
人口は江戸・大坂・京の三都に次ぐ大都市だった。
第二次世界大戦中の被害を受けなかった為、歴史的風情が残る。
昔、金沢に住んでいた芋掘り藤五郎が山芋を洗っていたところ、砂金(une paillette d’or)が出た為、金洗いの沢(le marais)と呼ばれた。
「金洗いの沢」は兼六園内の金沢神社隣にあり、現在は「金城霊沢」と呼ばれている。
1546年の一向一揆(une émeute)で本願寺の拠点が置かれた尾山御坊(金沢御坊)が起源。
1580年、佐久間盛政が尾山御坊を攻め、その地に金沢城築城。
賤ヶ岳(しずがたけ)の戦い以降、前田利家が金沢城に入り、加賀藩の原型が形成。
石高
太閤検地(1582年頃)~地租改正(1873年)までに採用されていた基準。
主に所有する土地の生産性(la productivité)。
単位(une unité)、1石は、成人1人が1年間に食べるお米の量(150kg)。


鼓門
2005年、白江龍三により建造。
高さ13.7mの2本の柱に支えられている門は、伝統芸能である能楽と加賀宝生の鼓(le petit tambour japonais en forme de diabolo)をイメージ。
能楽は14世紀から600年以上演じ受け継がれてきた舞台芸術。
加賀宝生(ほうしょう)は、石川県の伝統芸能である宝生流の能楽の事。

もてなしドーム
  • 竣工…2007年
  • アルミフレーム総数…6,000本
  • 球面の直径…180m
  • 駅側の長さ…78m
  • 奥行き…63m
  • 最高高さ…29.5m
  • ガラス枚数…3,019枚(内屋根面1,234枚)
この大屋根は、アルミ合金の立体トラスとガラスによる緩やかな曲線からなる日本最大級のドームで、雨や雪の多い金沢を訪れた人々に、そっと傘を差し出す金沢人のやさしさ、もてなしの心を表現するものとして建設。


近江町市場
3haの土地に170店舗。
加賀野菜や海産物を販売。
1690年に袋町の魚市場、1721年に犀川口の市場が近江町に移り、近江町市場の原型が出来る。


野村家

概要
1583年、藩祖・前田利家が金沢城に入城し、加賀百万石の基礎が築かれた。
直臣として仕えた野村伝兵衛信貞家は、禄高1,000石から1,200石と累進して、代々を御馬廻組々頭、各奉行職を歴任し、この地に3,000㎡の屋敷を拝領し、家督は11代にわたって、1871年の廃藩置県まで続いた由緒ある家柄。
武家制度の解体により、辺り一帯は菜園となったが、幸い門、土塀などは従来のまま残した。
1910年代の窮乏で更に土地は分割され、現在の住宅街に変貌。
野村家も一部を残し、館を取り払い分割され、幾たびか主人を変えたが、1920年代の藩政時代に『北前船』船主で蝦夷地などと通商した加賀支藩大聖寺藩下橋立村の傑商・久保彦兵衛が、藩主を招いた豪邸の一部の上段の間、謁見の間を移築して今に至る。
格調高い武家屋敷の庭園を偲び、一方陰で藩政を支え北海の怒涛に挑んだ豪商の館から、往時の栄華、文化を汲み、先人の歩みを知るのも現代人に必要な知識、条件と言えよう。

野村伝兵衛の鎧
1584年、末森合戦で一番槍を果たした時に野村伝兵衛が着用した鎧。

上段の間
藩主を招いた部屋。
総桧(le cyprès)造りの格天井の上段の間は、紫壇(le bois de rose)、黒壇(une ébène)を使った緻密な細工造りであり、格式を重んじた1.8mの桐板張り床。
金彫師の手によるものと思われる黒柿材の透かし彫りの釘隠し襖の引き手は鉄刀木(タガヤサン≅le cassia du Siam≅la légumineuses)での細工彫りで出来ている。
濡れ縁にせまる曲水を映えるギヤマン入り障子戸は住時(1844~1855)としては革新的。
襖は狩野派の絵師・佐々木泉景による山水画、地袋の遊亀の図は代表作として高評価。
加賀藩お抱え絵師だった泉景が商家に赴いて揮毫した経緯は定かではない。

伺候の間
佛間に至る一連の襖絵は、山口梅園による四季爛漫の図で狩野派の代表的な蜜画筆法。
山口梅園は大聖寺藩士であって、心流剣術の名手としても名高く、一方では小原文英により画を学び、京に赴いて浦上春琴に学んだ異色の士。

2枚の襖
この2枚の襖が左右の敷居に入り、武者隠しの間として使われた。

北前船
「北を前に進む」通商船が語源。
1644年に既に就航していた。
加賀、越前がその中心であって特に加賀大聖寺藩下の橋立、塩屋、瀬越の三港が主。
殊に旧橋立村の久保彦兵衛の持ち船は9隻に及んでいて、1864年〜1871年の間に江差港に入港した28隻の船の内加賀より29隻で、その内22隻が橋立からの北前船であった事が記録されていて、橋立村の北前船がいかに活躍していたかを物語っている。 藩としても財政や軍事上から常に富商の援助協力を求めていて、久保家は130石の高禄で士分格に列せられている。 1845年、11代大聖寺藩前田利平は財政の立て直しを久保家に託した為、10,000両を献納し、ペリー来航に対する軍備の充実には久保家は3,000両、大小砲23門を献納している記録がある。 藩と北前船主の関係は「お手船」として藩の威光を借りての利潤もあったが、それ以上に藩の受けた利益も大きく、その威力は藩主の近辺に及び、久保家に藩主の来駕する事もしばしばであった。

こも
金沢の雪は水分を多く含んだ牡丹雪が多く、雪の水分による土塀の損傷や、付着した積雪による土剥がれを防ぐ事を目的として、12月最初の週末に長町武家屋敷跡界隈では土塀を寒さや雪から守る「こも」を掛ける作業を行う。

聲桶(こうけい)
鶯(le rossignol)の鳥籠(une cage)を桐箱に入れて鳴き声を響かせ、風情を楽しむ。
上段の間、附き書院から眺める多宝塔、西乃屋形、各種の春日燈籠、六尺に及ぶ北国特有の大雪見燈篭を配し、さくらみかげの大架け橋。 藩主前田利家と同じ尾張への郷愁から故郷を偲び植え、北国の地には成育は稀な樹齢400年以上の山桃の古木を縫って、名石奇岩を擁する濡れ縁にせまる。 曲水、落水の妙は、まさに小堀遠州好みの「真の庭」の代表的な庭園として高く評価され、加賀文化の深さ歴史の重みを佇むここに感じられてならない。

控間
床板は樹齢1,000年の紅葉の一枚板。
天井は「真菰(稲科の植物)」の茎張り。
いずれも非常に珍しい。
障子戸の明かり取り又は風通しの窓。

庭の組石
約400年前、金沢城の石垣として切り出された時、搬出不能で山に残されていた石。
切り出し人夫の功を誇る目印入りの戸室石。
当時は一般使用禁制の石だった。

鬼川史考
慶長年間、時の開鑿(さく)奉行・富永勘解由左衛門は、鬼を祭祀し、自ら作り上げた武家屋敷周辺の用水を"鬼川"と名づけた。
又、銭屋興右門を父とする黒本植は、時の漢学者・藤田維正の門について和漢の書を学び、当野村家周辺に在住。
自らの書庫を"鬼川文庫"と呼んでいた。
この展示資料館の付名はこの二つの由来に起因する。

徳川幕府の貨幣制度
江戸時代の貨幣単位(四進法)
1両=4分=16朱=4,000文(4貫文)
1分=4朱=1,000文(1貫文)
1朱=250文


兼六園

  • 開園…1676年→1874年
  • 面積…11.7ha(117,000㎡)
  • 年来園者…2,590,000人
  • 特徴…特別名勝、池泉回遊式庭園、日本三名園、日本さくら名所100選
概要
1676年、加賀藩4代藩主・前田綱紀が別荘「蓮池御殿」を建て、周りを庭園化したのが起源。
1822年、大名・松平定信が『洛陽名園記』を引用し、宏大・幽邃・人力・蒼古・水泉・眺望の6つの景観を兼ね備えている事から命名。
1874年から一般公開。

桂の木
Un arbre à caramel
今は残った親木の原形から往時の姿が偲ばれ、その命は若木に受け継がれて成長している。
この辺りは、かつての桂の大木に因んで「桂坂」と名付けられている。

琴柱(ことじ)灯籠(une lanterne)と虹橋
琴(la cithare japonaise)の糸(la corde)を支える琴柱の形。
この灯籠は水面を照らす為の雪見灯篭が変化した物。

水道の遺構
園内を流れてきた辰巳用水がここから逆サイフォンの原理で金沢城二の丸へ導かれた水道の遺構。
1632年に作られた時は木管であったが、1844年に石管に替えられた。
この取水口を土塀で囲み三つの番所水御門を構えて厳重に管理していた。

唐﨑松
13代藩主・前田斉泰(なりやす)(1822~1866)が、琵琶湖の松の名所唐崎から種子(une graine)を取り寄せ育てた黒松。
当時は、曲水に沿って唐崎松の根元を通り抜ける事が出来る園路があったが、現在は根を守る為に廃止。

眺望台
ここからの眺めは、兼六園の六勝のうちの一つ。
左奥に横たわる稜線は内灘砂丘、その向こう側は日本海、砂丘が右に尽きる所から能登半島が北に伸びている。
正面の山は卯辰山、右は富山県境の医王山が望まれる。

雁行橋
Ganko-bashi
1枚1枚が亀の甲羅の形をしている為、別名「亀甲橋」とも言う。
11枚の赤戸室石(※)で、雁(une oie)が列をなして飛んでいる(voler)姿に造られており「かりがね橋」とも言う。
※赤室戸石
石川県金沢市の戸室山や医王山周辺で採掘される、赤みがかかった特有の色合いを持つ角閃石安山岩(火山岩)(une roche volcanique)。

霞ヶ池
1837年に掘られた池で、広さ5,800㎡。
池の中の島は蓬莱島といい、不老長寿を表しており、また亀の甲羅の形をしている為、別名「亀甲島」とも言う。

地蔵堂
1824年、12代藩主・前田斉広(なりなが)が隠居所「竹沢御殿」で没した時の枕石の跡にこの堂が建てられた。
堂内には地蔵尊の石像2体を安置。

七福神山
1822年に建てたれた竹沢御殿から眺めた築山。
自然石を左から順に恵比寿、大黒天、寿老人、福禄寿、布袋、毘沙門天、弁財天に見立てて配置。
別名「福寿山」とも言う。
七福神

明治紀念之標(日本武尊像)
1877年、西南の役で戦死した石川県出身の政府軍兵士400余名の慰霊碑。
九州の熊襲(くまそ)を平定(pacifier)したヤマトタケルになぞらえて、1880年に建立された日本最初の西洋式銅像
身長5.5m、台石の高さ6.5m
※日本武尊…日本神話において最も武力に優れた半神半人の英雄神。
石積部分にナメクジ(la limace)、蛇、ヒキガエル(le crapaud)型の岩が三すくみを表現。
1988~92年に補修工事。
この銅像には鳥が寄りつかないと言われ、金沢大学教授が研究した結果、銅像にヒ素(un arsenic)が含まれている事が判明。
2003年にイグ・ノーベル賞(les prix Ig-Nobel)受賞。

兼六園菊桜
1つの桜に花弁が300枚を超え、ちょうど菊花の様に咲き、落花の時は花柄ごと落ちる。
開花期は4月中旬から5月中旬頃で、花の色は濃い紅から薄紅、落花が近くなると、ほとんど白に近い色に変わる。
1928年、天然記念物に指定された初代兼六園菊桜は1970年に枯死した。

根上松
13代藩主・前田斉泰(なりやす)が、松の根が地表近くに成長する性質を利用して、盛土上に若松を植え、根を土で覆い、成長後に土を除いて根を露わにした。
根をあえて露出させる事で、樹木の生命力、力強さ、そして長い年月を経た「老樹」の風情を演出する日本庭園の高度な技術。

辰巳用水
1632年、金沢城の堀の水や防火用水としてここから11km先の犀川上流から引かれた。
工事の設計施工は小松の町人・板屋兵四郎。

成巽閣
Seison-kaku
1863年に加賀藩主第13代・前田斉泰(なりやす)が母・真龍院の隠居所として兼六園内の竹沢御殿跡の一隅に造営されたもので、金沢城から見て東南方、即ち巽(辰巳)の方位に在るとして当初は巽新殿と名付けられたが、1874年に兼六園が一般公開された時に、成巽閣と改称された。
成巽閣は、二階建、寄棟造り、柿葺の建造物で、幕末武家造りの遺構として他に類例が無いものと高く評価されている。
階下は調見の間、御寝所の亀の間、蝶の間等整然とした武家書院造りとし、階上は群青の間を中心とした数奇屋風書院造りの七室からなり、天井及び壁の意匠に趣向が凝らされている。
1938年、成巽閣は国宝建造物に指定され、1950年文化財保護法の制定により、現在は国の重要文化財に指定されている。
建造物及び藩政時代の美術工芸品が公開され、季節毎の展示替が行われる。

栄螺山
霞ヶ池を掘り広げた時の土で盛り上げたもの。
螺旋状の登り路が栄螺(le turbo)に似ている。
山頂に唐傘型の避雨亭があるので別名「からかさ山」とも言う。

瓢池
昔この辺りを蓮池庭と言い、兼六園発祥の地。
池は瓢箪(la calebasse)型をしているので、後に瓢池と名付けられた。
前方の翠滝は1774年に造られた。

伯牙断琴の手水鉢
表面には中国の琴の名手「伯牙」が友人の死を悲しんで琴の弦(la corde)を断ったという故事が浮き彫りにされている。
金工「後藤程乗」の作。

竹根石手水鉢
竹の化石(le fossile)の様に見える事が由来。
椰子(le palmier)類の茎(la tige)と根(la racine)の化石で、学術上極めて珍しい。

夕顔亭
1774年に建てられた茶室。
袖壁に夕顔(瓢箪の古語)の透かし彫りがある事が由来。
本席は三畳台目で相伴畳を構えた大名茶室。
藩政時代は「滝見の御亭」とも呼ばれた。

噴水
霞ヶ池を水源としており、水面との落差で高さ3.5mにまで吹き上がる。
19世紀中頃に造られた日本最古の噴水。
ポンプ(la pompe)等の動力は一切用いず、噴水のある園内の水源・霞ヶ池から石管(le tube en pierre)で水を引き、位置エネルギーのみを利用しているので、水が噴き上がる最高位はほぼ霞ヶ池の水面の高さ3.5m相当。


飛び石
千鳥配置。
飛び石が左右交互にずれながら続く。
「千鳥配置」
千利休が茶道と共に広めた。
歩く速さを落とす。
ゆっくり歩くことで庭の景観をしっかり味わう。
大きい石…立ち止まってじっくり見る。
小さい石…通過点。
道を曲げる理由…曲がるたびに視線の先が変わり、庭の違う顔が見える。一本の小径でいくつもの景色を楽しませる仕掛け。

洛陽名園記
中国北宋(960~1127)の詩人(un poète)李格非の著書で当時洛陽にあった19の名園の紹介文。

梅林
1968年、明治百年記念事業として全国から梅を集めて造られた。
面積3,000㎡に20種200本の梅(le prunier)が植えられている。

松の傷
la blessure du pin
この松の傷は太平洋戦争が終わった年、1945年の6月頃、政府の指示で軍用航空機の燃料(le combustible)にする為に松脂(まつやに)(la résine)を採取した跡。

時雨亭
5代藩主・前田綱紀が建てた蓮池御亭が起源。
続く6代藩主・前田吉徳が老朽化した御亭を建て替え、補修しながら存続させ、藩政後期には時雨亭とも呼ばれるようになった。
現在の時雨亭は当時の平面図をもとに、2000年に再現。
8畳と10畳の座敷の間に1畳台目の「御囲」と呼ばれる茶室。
時雨亭で使用される抹茶は「蓮池の香」というオリジナルブレンドで、18代当主・前田利祐(としやす)の命名。

金沢神社
1794年、11代藩主・前田治脩(はるなが)が藩校明倫堂を建てた際、その鎮守社として、学問の神であり、前田家の祖先とされる菅原道真を主祭神とする神社を創建。


金沢城
1546年…寺院尾山御坊建立
1580年…佐久間氏が寺院を攻め、金沢城と改称
1583年…前田利家が入城し、尾山城と改称
1587年…金沢城に改称

石川門【重要文化財】
金沢城の裏門で、高麗門の一の門、櫓門の二の門、続櫓と二層二階建ての石川櫓で構成された枡形門で、金沢城三御門のひとつ。
1788年再建。
枡形内の石垣は右と左で技法が異なり、右側は「切石積み」、左側は「粗加工石積み」

金沢城の石垣
金沢城は「石垣の博物館」とも言われ、多種多様な石垣が現存。
城の周りには野趣に富む高石垣、藩主の御殿や庭園周りにはデザイン感覚にあふれる石垣群を築くなど、場所によって石垣様式を使い分けている。
  • 自然石積み…ほとんど加工のない自然石を積み上げる技法。
    古い時代の石垣に多い。
  • 粗加工石積み…形や大きさを揃えた割石を用いて積み上げる技法。
  • 切石積み…石同士の接合部分を隙間無く加工して積み上げる技法。

菱櫓/五十間長屋/橋爪続櫓
二棟の三層三階の物見櫓「菱櫓」と「橋爪門続櫓」を、二層二階の倉庫「五十間長屋」でつないだ建築物。
2001年7月に復元され、明治以降に建てられた木造城郭建築物としては、国内最大規模。

三十間長屋【重要文化財】
二層二階の多聞櫓で、1858年再建。
倉庫として使われた建物で長さは26間半。
土台の石積みの技法は「切石積み」だが、表面の縁取りだけをそろえ、内側を粗く残す「金場取り残し積み」という技法が用いられている。

鶴丸倉庫【重要文化財】
城郭内に残っている物としては国内最大級の土蔵。
武具が保管されていた。
幕末の1848年に竣工し、明治以降は、陸軍によって被服庫として使用。
石板を貼った外壁など、櫓や城門等とはデザインを変えている。

河北門
金沢城の実質的な正門で、高麗門の一の門、櫓門の二の門、枡形土塀で構成された枡形門。
石川門、橋爪門とともに「金沢城三御門」と呼ばれ、二の門は城内で最大規模を誇る。
2010年4月に復元。

橋爪門
二の丸への正門として最も格式の高い門で、高麗門の一の門、石垣と二重塀で囲まれた枡形、櫓門の二の門からなる。
「金沢城三御門」のひとつで、城内最大の枡形門。
2015年3月に復元。

旧第六旅団指令部
木造瓦葺きのフランス様式を取り入れた平屋建ての建物。
1898年竣工。
中央に玄関があり、左右対称の外観。
レンガ積みの基礎に、腰から軒までの外壁はモルタル塗り、上下に開閉する窓が付いている。

玉泉院丸庭園
2代藩主・前田利長の正室玉泉院(永姫)が屋敷を構え、後に3代・前田利常が作庭を始め、廃藩時まで藩主の内庭として存在。
2015年に池泉回遊式庭園として江戸後期の姿を再現すると共に、池のほとりには庭園を一望できる玉泉庵を整備し、和室では季節に因んだ生菓子と抹茶を楽しむ事が出来る。


ひがし茶屋街

東山ひがし
江戸時代、この辺りは金沢城下から越中を結ぶ北国街道の下口として人や物資が行き交うとともに、寺社の行事や茶屋で楽しむ人々で大いに賑わっていた。
加賀藩はこの様な世俗を取り締まり武家社会の治安を保つ為、1820年に「ひがし」の地域に限り、茶屋町の開設を公許し、卯辰茶屋町や浅野川茶屋町と呼ばれていた。
その後、茶屋町は1831年に一旦廃止になったものの、1867年には再び公許され、明治以降は「東新地」「ひがし」と呼ばれ、市内随一の格式と賑わいを誇る茶屋町として、今日に至るまで金沢の茶屋文化を受け継いでいる。
ひがし防災広場
この広場は、江戸時代に水を溜めておく場所として利用されていた。
現在は、来訪者の休憩場として整備されている。
また、地区の防災機能向上の為、地下に防火水槽が設置されている。

志摩
1820年、茶屋町創設当初に建てられた茶屋建築。
「茶屋建築」は2階を客間(座敷)とする為、2階部分を高く造り、通りに面して高欄と張り出しの縁側を設けているのが特徴。
1, 2階の座敷廻りには要所に「面皮柱(めんかわばしら)」と呼ばれる丸太の肌を残した柱を用い、漆にて全体に濃い色付けを施し、弁柄色の土壁や具象的な図案の金物等で、独特の瀟洒で華やかな室内を醸し出している。
全国的にも類例の少ない茶屋建築であり、江戸時代後期における町人文化の一端を知る上でも貴重な建物。