兵庫県
兵庫県 | 神戸市 | 姫路市 | |
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面積 | 8,400㎢ 【12位】 |
557㎢ | 534㎢ |
人口 | 5,000,000人 【7位】 |
1,500,000人 | 500,000人 |
人口密度 | 646人/㎢ 【8位】 |
2,700人/㎢ | 983人/㎢ |
目次
姫路
- 現存12天守の一。
- 防火対策効果もある白漆喰(le plâtre blanc)から白鷺城(chateau d'héron blanc)と呼称。
- 1346年築城。
- 17世紀初期に18代城主池田輝政が現在の姿に改築。
- 地下1階から地上6階建て。
- 西大柱は24.6m。3階で上下に接ぎ合わせ。
- 東大柱は地上から5階までを1本で支える。
- 樅sapinから檜cyprèsへ変えて補強。
- 他420本の柱と267本の梁(poutre)で構築。
- 姫山45m、石垣15m、建物32m、海抜92m。
- 第二次世界大戦中、目立つから黒いネット(filet noir)で覆う。
- 米軍機長(commandant du chasseur)は、戦後50年に姫路を訪問。
- 「当時城があるとは知らなかった。レーダーにも外堀の水が映っており、沼地だと思った。」
- また、城下町に落とされた爆弾も不発に終わっている。
- 1993年に法隆寺とともに、日本初の世界遺産に登録。
- 姫路城
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現存する12天守のひとつ。
C'est un donjon existant dans 12 châteaux du Japon.
白漆喰(le plâtre blanc)の外壁から別名白鷺城(chateau d'héron blanc)と呼ばれる。
現存12天守の他、国宝五城、三名城にも数えられている。
地下1階から地上6階建てで、姫山標高45.6m、石垣14.85m、建物31.5mの海抜92m。
東西に2本の柱が据えられている。
西大柱は長さ24.6m、直径95cm、3階で上下に接ぎ合わされている。
東大柱は、地上から5階までを一本の柱で支えている。
天守構造は1580年当時は、3重3階。
1609年時点で、連立式望楼型5重6階地下1階。 - 歴史
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1346年に赤松貞範(さだのり)により築城。
17世紀初頭、小さな城塞に過ぎなかった姫路城を、関ヶ原の戦い後に18代目城主となった池田輝政によって現在の姿に改築。
※岡山城主池田綱政は池田輝政の曾孫。
1869年、第10代播磨姫路藩主酒井忠邦が版籍を奉還し、姫路城は国有になる。
国有化後は陸軍省(Le ministère de l'Armée)の管轄となり、陸軍(L'armée de terre)の拠点が置かれるなどした。
1910年から1911年、明治の大修理(une grande restauration)。
翌1912年、陸軍が使用していない本丸(noyau du château)、二の丸(deuxième cercle)、三の丸(troisième cercle)の一部を借り受け、姫山公園として整備して一般公開を開始。 1928年、史跡に指定。
1931年、国宝に指定。
1935年から1964年、昭和の大修理(une grande restauration)。
白漆喰が目立つことから、空爆の的になる危険性があった為、第二次大戦中は、黒いネット(filet noir)で覆った。
アメリカの爆撃機(B-29)の機長(commandant du chasseur)は、戦後50年に来日し姫路を訪れ、
「当時城があることは知らなかったし、レーダー(radar)にも外堀の水が映っていた為、辺り一帯を沼地で爆撃の価値が無いと判断した。」
Ce n'était pas la peine de bombardier.
と話している。
また、姫路城下町空襲の際に天守閣にも焼夷弾(bombe incendiaire)が着弾したが、偶然にも不発(tirer à blanc)に終わった。
1993年12月、法隆寺地域の仏教建造物とともに日本初の世界(文化)遺産として登録される。
2009年から2015年、平成の大修理(Une grande restauration)。
敷地面積 | |
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内曲輪以内 | 外曲輪以内 |
23ha 230,000㎡ |
233ha 2,330,000㎡ |
- 姫路城の瓦
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姫路城の屋根材は「いぶし瓦」と呼ばれる。
瓦は粘土を成型し焼成されるが、焼成後に燻す作業を行う。
これにより、表面に炭素の膜を作り、独特な光沢と色合いが出る。
さらに姫路城は、瓦と瓦の間に漆喰を施して耐久性を高めている。
瓦そのものは灰色だが、白漆喰により全体的に白く見える。
- お菊井戸「播州皿屋敷」
- Le puits d'Okiku(Une histoire de fantôme japonais de l'époque Edo)
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16世紀前半、城主小寺則職(こでらのりもと)の執権青山鉄山(あおやまてつざん)が城の乗っ取りを計画(Il a entrepris de faire la révolte.)。
これに気づいた忠臣(vassal)の衣笠元信(きぬがさもとのぶ)は、お菊を青山家に女中(assistante de ménage)として送り込み、陰謀を暴く(dévoiler un complot)。
しかし、青山一家のクーデター(coup d'État)は成功。
それでもお菊は青山家に残り諜報活動(espionnage)を続けるも、青山鉄山の家来である町坪弾四郎(ちょうのつぼだんしろう)に気づかれてしまい、それを盾に結婚を迫られる(exercer un chantage)。
しかし、お菊は拒絶し、腹を立てた弾四郎は家宝の皿10枚のうち1枚を隠し、お菊の不始末として責め殺して(reprocher)井戸に投げ込んだ。
それからというもの、毎晩皿を数えるお菊の悲しげな声が井戸から聞こえるようになった。
その後、元信らによって青山鉄山一味は滅ぼされた。
- 好古園
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正式名称は、「姫路城西御屋敷跡庭園好古園」
広さは3.4ha(33,994㎡)
1618年に本多忠政(播磨姫路藩初代藩主 / 徳川家康の重臣本多忠勝の長男)によって西御屋敷や武家屋敷が造営された。
好古園はそれら屋敷の遺構をそのまま活かして作庭された約34,000m²の池泉回遊式庭園群。
9つの日本庭園で構成され、其々が屋敷割遺構どおりに築地塀等で仕切られていることを特徴とする。
各庭園入口には長屋門、屋敷門、園内には渡り廊下等江戸時代の建築が再現されている。
名前の由来は1692年に開かれた藩校「好古堂」が元となっている。
開園は1992年4月29日で、2017年3月に入場者数が500万人を超えた。