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三重県

三重県 津市 四日市市
面積 5,800㎢ 700㎢ 200㎢
人口 1,700,000人 260,000人 300,000人
伊賀市 伊勢市 鳥羽市
面積 558㎢ 200㎢ 100㎢
人口 80,000人 116,000人 15,000人

目次


伊勢

伊勢神宮(内宮)
皇室の祖先神で日本人の総氏神・太陽神天照大神を祀り、三種の神器の一つ、八咫鏡(le miroir)を御神体として祀る。
天孫降臨
天照大御神はの瓊瓊杵尊(ニニギノミコト)に三種の神器を授け、天上界から地上に降りて治めるように命じた。
Elle lui a ordonné de gouverner la terre.
また天照大御神は米作りが繁栄と平和をもたらすと教え、天上の清らかな稲を地上で作るように託した。
天孫降臨以来、八咫鏡は皇居に祀られていたが、天照大御神の力が畏れ多いと考え、第10代崇神天皇代に皇居外へ祀る事になる。
倭姫命(ヤマトヒメノミコト)の旅
第10代崇神天皇代に奈良で疫病が蔓延し、第11代垂仁(すいにん)天皇の皇女・倭姫命が神境を大和から移す為に各地を巡り、紀元前4年に伊勢を選んだ。
お伊勢参り
平安時代末から参拝者増加。
江戸時代に入って街道に宿泊施設や茶屋が整えられ、誰でも安心して参宮できるようになった。

宇治橋
五十鈴(いすず)川に架かる木造橋。
長さ101.8m、両端の鳥居は両正宮の旧正殿棟持柱をリサイクルして造られた。

第63回神宮式年遷宮
式年遷宮は20年に1度、正殿他諸殿舎と装束神宝の全てを新しくして、大御神様に新宮へお遷りいただき、国と国民の平安と発展を祈る、我が国最大のお祭り。
天武天皇の発意により、690年に第1回が行われて以来、皇室の弥栄(いやさか=一層の繁栄)、国民の安寧を祈り、今日まで受け継がれている。
次回は2033年予定。
2025年から2033年にかけて実施。

五十鈴川御手洗場
参拝する前に清流で心身を清める場所。
投銭禁止。

竹囲い
参道の神木に竹製の囲いがしてあるのは、参拝者が神木に触れたり、皮を剥いで持って行ってしまうのを防ぐ為。
伊勢神宮の神木は樹齢900年を越えており、長寿の御利益を願い、幹に触れたり、木の皮を剥いで身に着ける事が流行った。
そうした参拝者の行為により、神木が弱るのを防ぐ為、人の背丈を超える高さまで囲った。

風日祈宮(かざひのみのみや)
風の神を祀る別宮。
鎌倉時代の元寇(1274・1281)の時、神風を吹かせて日本を守った神。

正宮
社殿の中心の正殿は4重の垣根に囲まれる。
唯一神明造の古代の様式を伝え、萱葺の屋根には10本の鰹木が乗せられ、4本の千木の先端は水平に切られている。
撮影禁止区域。

荒祭宮(あらまつりのみや)
天照大御神の荒御魂を祀る別宮で、荒御魂とは神の特別な働きをする状態、または神が現れた状態

神楽殿
祈祷の神楽を行う御殿。
隣の御饌(みけ)殿でも祈祷を行う。

参集殿
参拝者用休憩所で、神宮の映像を上映。
能舞台があり、奉納行事にも使用。

子安神社
木華開耶姫命(コノハナサクヤヒメノミコト)を祀る。
奥にある大山祇(オオヤマツミ)神社の祭神の娘。
子授け、安産、子育ての信仰。

お伊勢参り
お蔭参りは、江戸時代に起こった伊勢神宮への集団参詣。
数百万人規模の者が、およそ60年周期(「おかげ年」と言う)に3回起こった。
「抜け参り」とも言う。
お蔭参りの最大の特徴として、奉公人(un employé)が主人に無断で、または子供が親に無断で参詣した。
大金を持たなくても信心の旅という事で沿道の施しを受けることが出来た。
  • 江戸から片道15日間
  • 大坂から片道5日間
  • 名古屋から片道3日間
  • 陸奥国釜石から片道100日
「お蔭参り」の語源
  • 天照大御神の「おかげ」で参詣を果たす事が出来た説。
  • 天照大御神の「おかげ」で平和な生活を送る事が出来る事に感謝をする説。
  • 道中での施行(せぎょう)等様々な人の「おかげ」で参宮出来た説。
市原貞右衛門綱稠
18世紀末、福島県に住んでいた市原貞右衛門綱稠(つなちか)は、お伊勢参りを欠かさなかったが、病床に伏し、愛犬の「シロ」に代参を任せた。
シロは福島県片道670kmの道のりを伊勢まで参り、2ヶ月後に無事帰宅。
風呂敷にはお札と、奉納金の受領や食べ物の代金を記した帳面と路銀の残りが入っていた。
おかげ犬
道行く人々は、頼まれなくてもリレー式に連れて行き、そういう事をすること自体も「徳(la vertu)」になるとされた。
道中、そうした犬が来ると餌を与えたり泊めたりして、その分のお金を少し貰っておくが、人によっては逆に足したり、自分の神札も貰って来てくれるように、代参を頼む人もいた。
お金を足す人の方が多かった為、首に付けたお金の袋も重くなっていく。
重くて大変なので、両替してくれる人もいた。


鳥羽

ミキモト真珠島
1893年に御木本幸吉(こうきち)が世界初真珠養殖に成功した島。

真珠が島
子爵澁澤榮一題時九十
日本資本主義の父と称され、新一万円札やNHK大河ドラマの主人公としても注目を集めた渋沢栄一(1840~1931)の手による記念碑。
1929年、御木本幸吉は渋沢栄一の提唱した民間外交の場としてこの島を整備、真珠を通じた親善外交を繰り広げた。

養殖真珠第一号ここに生まる
明治26年(1893年)7月11日

家紋新制の碑
昭和12年(1937年)6月、貞明皇后(大正天皇妃)の鳥羽行啓を記念し、波の中の真珠貝を表した紋章を新たに定め、これを家紋とした。

「千秋放光」の碑
御木本幸吉の養殖真珠発明の功績に対し、1928年1月に帝国発明協会から贈られた碑。
標題「千秋放光」は渋沢栄一の筆。

「養真珠」の碑
1891年に大日本水産会総裁・小松宮彰仁親王より賜った御親筆。
御木本幸吉はこの三字を励みとして事業に打ち込み、養殖真珠を完成させた。
1900年同親王の多徳養殖場ご来場を記念して碑を造り、これを掲げた。

御木本幸吉の銅像
御木本幸吉の功績を後世に伝える為、真珠関係者や伊勢志摩の海女により建立。
1953年11月25日に除幕式。
作者は北村西望氏、高さは3.75m。

真珠博物館
人は真珠の研究を行い、その秘密を突き止めて、貝に作らせることに成功。
貝が自ら抱いた天然真珠と、人が貝に作らせる養殖真珠の違いは、形成のきっかけが異なるだけで、真珠自体の本質的な差は無い。
ここでは、貝と真珠の関係を踏まえながら、様々な標本や養殖現場からの情報を交えて、真珠のできる仕組みを紹介する。

御木本幸吉記念館
城下町と港町 二つの顔をもつ鳥羽
今の鳥羽市から志摩郡一帯を明治までは志摩国と言った。
その中心である鳥羽は大阪から江戸間航路の風待ち港。
「鳥羽よ鳥羽よとなぜ褒める 帯の幅ほどない鳥羽を」と俗謡にうたわれたように船乗りたちにとってはひとときの安らぎを得ることのできる良港だった。
町家の戸数は1852年で816戸。
これに武家屋敷を加えれば1,200戸以上になる。
しかし、鳥羽城が海上にせりだすという特殊な地形からか武士と町人の交流は少なく、城下町としての文化が育たなかった。
風待港といってもあくまで中継地点。
平地は少なく物資の消費量も僅かで小さな商いの店が軒を並べていた。

どうしてアマは女性?
鳥羽・志摩地方では海女が圧倒的に多い。
では、アマはどうして「女」か。
3つの説がある。
  • 女性は男性と比べて、皮下脂肪(le pannicule adipeux)が多く、寒さ(le froid)に長く耐えられる。
  • 漁業が発達するにしたがって、男は次第に大量な漁獲を求めて、沖の漁場へ出て行くようになり、磯でする潜水漁業は自然に女の海女になった。
  • 朝廷や神宮へ神饌として鮑(un ormeau)を奉る神聖な役割は、特に女性が果たしていた。
女性が漁業に従事するのは、日本では珍しい。
女性アマは平安時代からいたが、男女比は不明。
今風に使われる「海女」と漢字は、明治期以降。
海女はどこにいるか
鳥羽・志摩地方、千葉県の南房総、静岡県の伊豆、徳島県の阿部、山口県の大浦、福岡県の鐘崎、長崎県対馬の曲、福井県の雄島、石川県の舳倉島などが、アマ漁の盛んな所。
志摩半島の海女は、早くから他地へ出稼ぎに出た。
近くは熊野地方、他に伊豆や北海道の利尻島、一時朝鮮半島へも行った。

二見輿玉神社
  • 御祭神…興玉大神(オキタマノオオカミ)
  • 別名…猿田彦大神(サルタヒコノオオカミ)
  • 相殿…宇迦乃御魂大神(ウガノミタマノオオカミ)
第11代垂仁天皇の皇女・倭姫命が天照大御神を奉戴し、この二見浦に停泊した際、興玉大神は海上の厳島に現出。
天照大御神は五十鈴川上に大宮地を定めた。
興玉神は天照大御神の守護神として分霊され内宮に祀られた。
厳島は興玉神石と尊称し、夫婦岩に注連縄を張り結界とし、その前に遥拝所を設けて礼拝したのが二神輿玉神社の起源。
その後729~748年に僧行基がこの地に参り千手観世音菩薩を本尊として迎えた。
1876年、神仏分離により新たに元の立石(夫婦岩の男岩)前に神社として鎮座。
興玉大神の由来は、起魂・招魂であり、魂を導き甦らせる神であり、人々が過ち無く過ごせる様に導く大神。
二身とは、自らの姿の善と悪を見つめる事。
相殿神である宇迦御魂大神は天乃岩戸の内に祭祀せられた元三宮神社(三狐神社)の祭神であり、二見町茶屋区の氏神にして、豊宇氣大神の御別名、御饌都大神。
宇迦御魂大神は衣食を満たし産業を加護し給う大神。
伝承によると倭姫命が天乃岩戸屋窟内に御船を泊められて、あまりの美しさに二度振り返った為に「二見」と言う地名になった。
1592~96年に天乃岩戸内より、その外側に遷座し奉り、1910年元興玉社と元三宮神社を合祀し奉り二見興玉神社と改称。

夫婦岩
夫婦岩は、海中の猿田彦大御神の興玉神石と、日の大神(日の出)を拝する鳥居の役割を果たす。
2つの岩は夫婦円満や良縁の象徴。

興玉神石は、神々の理想郷の国「常世の国」から来る神が最初に寄り付く聖なる岩であり、夫婦岩は、興玉神石の門石(鳥居)で、夫婦岩の間に張り巡らせてある大注連縄は、神の世と俗世とを隔離する結界。
神々は興玉神石によりこの下界に蘇る。
往古この神石は露出していたが、今は暗礁となり海中に鎮座。
明治時代に伊邪那岐・伊邪那美命に因み、夫婦岩と呼ぶようになった。
大岩(男岩)は高さ9m周囲44mで古生層の最下部である輝光石と緑泥片石からなり、小岩(女岩)は根尻岩と呼ばれ高さ4m、周囲10mで方解石からなり、大小の男岩と夫岩の間に張り巡らされた大注連縄の長さは35mある。
大岩・小岩を結ぶ大注連縄は「結界の縄」と称され、夫婦岩の向こうを海の彼方にある「常世の国」からの神々が最初に下界に寄りつく聖なる場所とされる。
当社の夫婦岩に掛けられた大注連縄は古式に則り奉製されるもので、縄の長さが35m、大岩に16m、小岩に10mが巻かれ、その間の長さは9mある。
この大注連縄は年3回5月5日・9月5日・12月潮時の良い吉日に張替えられる。
この大注連縄奉献の意味は、一切の不浄を祓って日の大神及び興玉神石遥拝の鳥居に献ずる。
大注連縄奉献は1317~19年に奉献されてた。
また、輪注連縄は小注連縄の事であり、その代用にして、同じくこの霊地にて参拝に訪れた方が禊斎するために、身を祓いし上に社頭に奉献するのが習わし。
1855~60年の津波以前は、大岩の前方に螺旋状の岩があり、参拝者は小注連縄を此の岩柱に奉献した。

浜参宮
浜参宮とは二見浦の二見興玉神社に参宮する事であり、浜辺で汐水を浴び、禊をし穢れを祓い清め心身を清浄にして、伊勢神宮へ参拝する慣習。
伊勢の神領民はお木曳・お白石持ち行事・重要な地域の祭典の前には先ず二見にて浜参宮とするのが第一で、古来よりの伝統が受け継がれている。
皆、地元の団ごとに揃いの法被に幟を先頭に徒歩にて二見旅館街を行進し、家族親族、地域の方々打揃い、お木曳・お白石持ち行事に参加の意識を高揚、連帯感の確認を行いつつ、無垢塩祓を受け、木遣りを奉納する。

無垢塩草
聖なる岩の興玉神石の附近から採取したアマモを天日干しにし祓神具として古来より使用。
女官が髪の毛に結び穢れを祓ったり様々な神具として使用されるが、正式な使用用途は秘匿であり、宮司等、一部の神職のみに受け継がれている。
一般的には当社は禊の霊場で、身を清め穢れを祓い神宮に参拝するのが古くからの吉例。
  1. 無垢塩草は浴槽の湯水に浸し、体を清める。
  2. 懐・鞄・財布等に用い、不浄のお清めの祓いのお守りとして用い、又道を開き、障りからの進行を防ぐので、出かける際にお守りとして一緒に用いる。
  3. 玄関の注連縄に付け門口の不浄を祓い、家内の厄災を除け、又、田畑の畔に立て土地の害虫の災いを防ぐのに用いる。

境内社 龍宮社
御祭神…綿津見大神
昔、この郷に津波襲来し、住民が海の守護神と仰ぐ綿津見大神を勧請して奉祀され、その後の1741年の津波、明治の高潮にも被害が少なく、益々信奉の念を高めた。
現在、龍宮社は陰暦5月15日に例祭神事を執り行う。
この祭典では、きゅうり・なす・みる・おご・まつ菜等が供えられ、「津波が急にきたら見るな、待つな、おごるな」の先人等の尊い教えが生きている。

天岩戸神話
天照大御神の弟神である素戔嗚尊(スサノオノミコト)は、高天原の天照大御神を訪ねた。
天照大御神は荒々しい性格の弟にその忠誠心を問うたが、素戔嗚尊は大暴れした(Il s'est démené)。
その為、天照大御神は天岩戸(la grotte)の中に籠り、世界は光を失い様々な災いが起こった。
そこで高天原の神々は相談の末、太玉命(フトダマノミコト)が八咫鏡と八坂瓊勾玉を榊にかけ天児屋命(アメノコヤネノミコト)が祈りを捧げた
そして天鈿女命(アメノウズメノミコト)が神楽を舞うと、鶏が鳴き出し、面白い舞を見て神々がどっと笑い声をあげた。
そのどよめきを聞かれた天照大御神は、岩戸を少し開けると、その姿が八咫鏡に写った。
Le visage s'est réfléchi dans le miroir.
鏡に写る自分の姿を貴い神だと思った天照大御神は、その姿をもっとよく見ようとした時、隠れていた手力雄神(タヂカラオノカミ)がぐっと岩戸を押し開き、世界は再び光と秩序を取り戻すことができた。
これは万物に光明をもたらす太陽にも例えられる天照大御神の偉大なご神徳をなぞらえた物語。

二見蛙
猿田彦大神は天孫降臨の際と伊勢神宮御鎮座の時に道案内したので交通安全の神。
手水舎の蛙は、向かって左が女性、右が男性。
まずは各自がお清めして、それぞれの蛙に水をかける。
蛙の意味
蛙は大神の遣いで境内に沢山ある置物は
「無事帰る」
「貸した物が還る」
「若返る」
等の縁起により御利益を受けた人々の献納による。
神話では、天照大御神に谷蟆々(タニグク,蛙)を献じたという言い伝えがある。
また、海の守護神である龍神崇拝から、龍神は雨を喜ぶ、蛙を献ずる。


伊賀

伊賀市
京都、奈良、伊勢を結ぶ奈良街道、伊賀街道、初瀬街道が通り、古来より都(飛鳥、奈良、京都)に隣接する地域として繁栄。
北に隣接する滋賀県甲賀市とは、伊賀流と甲賀流に因む忍術対決が行われており、負けた市は勝った市のPRポスターを1年間掲示する。

忍者
元々は農民(paysan)で、農業(agriculture)の傍ら、忍者として仕事を請け負った。
忍者の本分は諜報活動(espionnage)であり、暗殺(assassinat)も度々受けていた。
伊賀流忍者が生まれた理由
山は人々が逃げ隠れできる場所であり、神聖な場所。
複雑な地形の土地は、湿度の高い風が発生し薬草が育つ。
そのような環境で薬や火薬を作った。
谷や山に囲まれた入り組んだ土地は複雑で、統治する者にとっては状況が把握しにくく、強い中央集権の及ばない土地柄だった。
伊賀は領主の仁木氏が総ていたが、実際は伊賀衆の方が強い勢力を保持していた。
つまり、突出した支配者がいない為に横一列の連合体の力が強かった。
まとめると、
  • 京都や奈良の都が近い
  • 山で修行したり薬草を採ったりした
  • 秘密裏に団結し、自分たちで政治を行った。

九字護身法
集中力を高める呪文(incantation)で、道教(le taoïsme)が修験道と合わさって生まれた。
九字切りは精神面の安定を高める霊的な行為(le geste spirituel)の為、素人が安易に行ってはいけない。
精神のバランスを崩しかねない。
On perd son équilibre.

忍者の武器
Les armes de Ninja

忍者ソード
Une épée de Ninja
真っ直ぐな剣(une épée droite)は、鎧(armure)の隙間(un interstice)を突く(piquer)為の物。
長い紐(cordon)で壁を登り(franchir)、引っ張り上げる。

手裏剣
1枚200gで、普通は1~2枚しか持てない。
刃(lame)に毒を塗り、掠っただけでも殺傷能力を持たせる。

吹き矢
sarbacane
笛(flûte)に見せかけて音も無く矢(flèche)を放つ。