Tokyo Guide Francophone

menu

大阪府

大阪府 大阪市
面積 1,900㎢
【46位】
225㎢
人口 8,700,000人
【3位】
2,700,000人
人口密度 4,600人/㎢
【2位】
12,000人/㎢

目次


関西国際空港
大阪府大阪市の南西35kmに位置。
西日本の国際的な玄関口。
1994年9月4日、大阪湾内5kmの埋立地に開港した世界初の完全人工島からなる海上空港。
関空 成田 羽田
開港 1994年 1978年 1931年
敷地 1,067ha
10.67㎢
1,137ha
11.37㎢
1,516ha
15.16㎢
旅客数
2019年
28 millions 44 millions 84 millions

大阪概要
京都や奈良からも近く、瀬戸内海(la mer Intérieure)の東端に位置している大阪湾が西日本最大の交通の要衝(noeud de communication)であったことから、流通(circulation)が発展。
その為、 「商人の町(La ville commerçante)
天下の台所(La cuisine du Japon)
と呼ばれた。
第二次大戦後期、日本国内で米が不足し、代用品として小麦粉を食した。
戦後もアメリカから大量に小麦粉が輸入され(On a importé beacoup de farine de blé)、小麦粉を使った料理が広まった。

昔から商人が闊歩していた大阪では安くて美味しく、手軽に食べることが出来るもの(manger facilement)としてお好み焼きが発明された。
戦後の食糧危機(la crise alimentaire)の時代は、具材もキャベツやネギのみとシンプルだったが、様々なアレンジが加わり、現在の形になった。
こうして大阪では、お好み焼きやたこ焼き、串カツなどの粉物(La nourriture en poudre)を中心に食文化が栄えた。

日本のおける小麦の生産量
日本国内の小麦生産量は1,000,000tで、内北海道が60%のシェアを占める。
一方で5,000,000tの小麦を輸入しており、内アメリカが50%を占める。
ちなみに、アメリカの小麦生産量は45,000,000tで、世界第4位。
第1位は中国で137,000,000t、第2位はインドで100,000,000t、第3位はロシアで76,000,000t
インスタント麺等による日本における小麦粉需要は高い。

江戸時代以降の大阪
江戸幕府は、味方(allies)となる大名が西国には乏しいことから大阪を直轄地の天領とし、西国監視(surveiller)の為に大阪城再建。
海路に難所が多く海運に不向きな江戸よりも、古くから恵まれた海運の要衝であった大阪に蔵屋敷を置いた。
こうして、日本全国の物流が集中する経済・商業の中心地となり、「天下の台所」と呼ばれて繁栄し、「元禄文化」が大阪を中心に花開いた。

人形浄瑠璃発祥地。
大坂相撲や上方歌舞伎。
他、庶民の娯楽として上方落語、漫才、吉本新喜劇・松竹喜劇などのお笑い文化が栄えている。

大阪は商業の町としての性格上、お互いに角の立たない円滑で穏和なコミュニケーション術が発達した。
こうしたことが大阪でお笑い文化が花開く素地となったのではないかとされている。

大阪の食い倒れ
大阪人は破産しそうなほど飲食に贅沢をする(Les habitant d'Osaka se ruinent pour la gastronomie.)という意味の諺が生まれるほど、食に貪欲(Ils sont avide de manger)。
しゃぶしゃぶや懐石料理、うどんすき、大阪寿司や割烹などの本格的な日本料理の発祥地としてや、たこ焼きやお好み焼き、串カツ、イカ焼きといった、“粉もん”を中心とした庶民の味まで、様々な料理が楽しめる。
昔からの土産物としては岩いこしや昆布があり、現在は廃れたもののきゅうり、大根などの伝統野菜(なにわ野菜)が見直され、和泉でしかできない水茄子や和泉の玉葱、水菜など野菜の特産もある。
特にねぎは九条ねぎ等の日本の青ねぎの原種であり、最古(奈良時代には既にあった記録が残る)の品種である難波ねぎの一大生産地として戦前まで栄え、難波=ネギと代名詞ともなり、これは鴨南蛮の語源となったともいわれている。
昔から“大阪の味”として親しまれてきたものは、鱧(はも)、ふぐ、きつねうどん、まむしなどがある。
特にふぐは全国消費量の約6割が大阪での消費であり、代表的な料理法としては“てっちり”や“てっさ”が挙げられる。

御堂筋
大阪市都心部を南北に縦断する全長約4kmの街路。
大阪市のキタの玄関口「梅田」とミナミの玄関口「難波」を結ぶ。
大阪のメインストリートであり、両側には約970本のイチョウが植えられている。
キタ「梅田」
日本銀行大阪支店 大阪市役所
本願寺津村別院
チャペル(結婚式場)
難波神社 在大阪英国領事館
ホテル日航大阪 大丸心斎橋店
道頓堀橋
ホテルロイヤルクラシック大阪
ミナミ「難波」

黒門市場
卸売(gros)と小売(détail)の機能を兼ね備えた江戸時代後期から続く市場。
千日前から南へ約580mの間に、鮮魚をはじめ青物・果物、飲食、衣料品など約180店舗が軒を並べ、平日は約18,000人、年末になると約15万人(150 milles)がやってくる。

1822年から1823年頃、日本橋の圓明寺(えんみょうじ)付近にあった黒い山門のあたりに商人が集まり、堺や紀州から入ってきた魚を売ったのが起源。
1912年の難波火災によって寺とともに焼失するまでは、「圓明寺市場」と呼ばれていた。
その後空襲で再び焼失。
戦後に復興して現在に至る。

道頓堀
1612年に東横堀川と西横堀川を結んで、木津川へ注ぐ運河(canal)を掘削する事業を始めていた。
その時指揮を執っていたのが、安井道頓という商人(commerçant)だった。
しかし、道頓が1615年の大坂夏の陣で戦死した為、代役を立てて同年工事が完了。
堀の名前について、当時の大阪城城主松平忠明が、道頓の死を悼んで「道頓堀」と名付けた。
Un propriétaire du château d'Osaka, Tadaakira Matsudaira en a pleuré la mort et nommé "Doton bori".

阪神タイガース優勝時の阪神ファンや、サッカー日本代表W杯出場決定時のサポーター(supporter)や、年末年始のカウントダウン時には道頓堀川へ飛び込む(se jeter)行為が見受けられるが、行政(administration)は飛び込み禁止を訴えている。

道頓堀グリコサイン
初代は1935年で、モデルは1923年極東選手権競技大会(Le jeux de l'extrême-orient)で活躍したフィリピンのランナー(un coureur philippin)や1924年のパリオリンピック代表日本人選手(J.O. à Paris 1924)らを参考にしてデザインされた。
1943年、鉄材供出の為に解体(démoli)された。
1955年、2代目看板再建。
現在の看板は、2014年にリニューアルされた6代目に当たる。

江崎グリコの創業者がキャラメルの「グリコ」を考えた時に、「美味しさと健康」についても考えた。
ちょうどその時、子供がかけっこをしてゴールインする姿を見て、ゴールインマークが閃いたとの事。
Des enfants font la course et c'est un moment quand il franchit l'arrivée.

江崎グリコ株式会社
1929年創業の菓子類(friandises)、乳製品(laitages)、レトルト食品(aliment en sachet à réchauffer au bain-marie)を扱う大阪府大阪市西淀川区歌島四丁目に本社を置く食品メーカー(les grands fabricants japonais de produits alimentaires)。

1919年、創業者の江崎利一が牡蠣の煮汁(Du bouillon des huîtres)からグリコーゲン(le glycogène)を採取し、それをキャラメルに入れた栄養菓子(petit gâteau nourrissant)「グリコ」を製作し、1922年に大阪の三越百貨店で販売したのがきっかけ。
氏は「子供の二大楽しみ、食べることと遊ぶことを同時に満たす」
「Deux grands plaisirs pour les enfants, manger et jouer」
と考え、おまけ(jouet)を同梱したことにより大ヒット商品(obtenir un succès brillant)となった。
これが日本における食玩の元祖とされている。

くいだおれ
「株式会社くいだおれ」は1949年創業の企業。
屋号は「京の着倒れ、江戸の飲み倒れ」という、「京都の人間は着物道楽が過ぎて、江戸の人間は良い酒を飲み過ぎて財産を失う」という意味の慣用句。
店頭にある「くいだおれ太郎」は1950年に登場し、今では大阪を代表する名物キャラクターになった。
文学人形をモチーフにした電動稼働人形。

焼け野原となった戦後の大阪復興(reconstruction)を目指し、食堂として創業。
創業当初は「飲食店は大人だけが行く所」という認識が一般的であり、 チェーン展開によるファミリーレストラン(restaurants familiaux)が普及する1970年代よりも20年以上も前に子供連れの家族が外食するレストランというビジョンを予測し、その実質的な入店意思決定権者である子供の興味を引く事を第一としたマーケティング戦略(étude de marché)に基づいて制作されたのがこの「くいだおれ太郎」

法善寺横丁
長さ80m、幅3mの2本の露地が東西に延びる横丁内には、老舗割烹やバー、お好み焼き屋や、串カツ店などが軒を連ねている。
風情のある趣は、もともと浄土宗天龍寺法善寺という寺の境内で、参拝客相手の露店(baraques de forains)が起源と言われている。

かに道楽
1960年に創業した蟹料理専門店。
道頓堀本店をはじめ、関西を中心に全国展開。

梅田スカイビル
  • 1993年竣工。
  • 地下2階、地上40階、高さ173mのオフィスビル。
  • 空中庭園を再現。
  • 地上で庭園を組み立てた後、上空150mまで吊り上げた。
1993年竣工。
地上40階、地下2階、高さ約173mのオフィスビル。
建築家で京都駅の設計も務めた原広司(はらひろし)は、高さを競うよりも人々が古来より追い求めている
空の中に広がる楽園(paradis en l'air)
つまり「空中庭園(Le jardin en l'air)」の実現こそ、梅田スカイビルのキーワード(la thème)となっている。

梅田スカイビルは当初3棟連結の計画(projet)だったが最終的に現在の2棟連結になった。
しかし、将来的に3棟目を建てる計画は今も眠っている。

この工事にあたってはワイヤー(le câble)によるリフトアップ工法を採用。
地上で組み上げた1,040tの空中庭園を、4基のウィンチ(treuil)によって毎分35cm、約7時間かけて150m上空まで吊り上げた。
D'abord, le jardin 1040t a été monté par terre, et puis on l'a levé en utilisant le câble et le treuil, 35cm toutes les minutes jusqu'à 150m d'altitude pour 7 heures.

あべのハルカス
2014年開業の複合商業ビル。
鉄道駅、百貨店、ホテル、オフィス、美術館、展望台などを擁する。
60階建、300mの日本一高いビル。
詳細は日本の高層建築ランキング参照
設計は、アメリカの建築家César Pelliが監修。
エレベーター数56基。

2023年6月30日竣工予定の「麻布台ヒルズ森JPタワー」に高さを抜かれる。
あべのハルカスの外観を監修したCézar Pelliが亡くなる直前の2019年に着工。
麻布台ヒルズ森JPタワーは彼の遺作となる。
高さは325mで、地上64階、地下5階。
インターナショナルスクール、オフィス、住居、店舗、医療施設を擁する。
完成すれば、日本一高いビルとなるが、2027年には千代田区大手町に高さ390mのTorch Tower(トーチタワー)が竣工予定。

大阪城

  • 16世紀後半、豊臣秀吉が築城。
  • 1600年の関ヶ原で徳川家康勝利。
  • 1615年大坂夏の陣で落城。
  • 1620年に徳川秀忠が修復。
  • 落雷や火災で焼失。
  • 1931年に鉄筋コンクリートで再現。
16世紀後半、豊臣秀吉によって築城。
現存する城跡は全て江戸幕府下の徳川家による修築。
1600年に関ヶ原の戦いで徳川家康が勝利し、1615年の大坂夏の陣で落城。
1620年に2代秀忠が修復。
その後、落雷や火災で焼失。
天守閣は1931年に鉄筋コンクリートで再現。
戦後、大阪城公園が整備され、店主内に美術館を展開。
  • 高校生以上のガイドを除いたお客様15名以上で団体受付可能
  • 個人利用や割引券が無い場合は、自動券売機でチケット購入
  • エレベーターは5階まで直通だが、待ち時間がかかる
  • 3階と4階は撮影禁止
  • 7階は豊臣秀吉の生涯。8階は展望回廊。いずれもかなり手狭。
  • 城としての内装は無く、城内は博物館のような感じ

石山本願寺と大阪
1496年、本願寺8代目が大阪に宿坊を築いた。
1532年、山科本願寺が火災に遭い、この地に本願寺の中心が移った。
やがて本願寺は織田信長と対立し1570年から11年間続いた石山合戦の後1591年に京都へ移転。
※信長は寺社勢力の利権に手を出していた。他の大名が着手してこなかった寺社勢力の利権獲得によって信長は素早く強大な経済力を持つことができた。
一方豊臣秀吉は1580年に焼失した石山本願寺跡に1583年大阪城を築城。

桜門升形の巨石
桜門の内側には、本丸の正面入口を守るため、石垣で四角く囲まれた「升形」と呼ばれる区画が設けられ、上部に多聞櫓が建てられた。
升形は1624年徳川家による増築で、岡山産花崗岩(le granite)を使用。
正面の蛸石は、城内最大の巨石で表面積(superficie)60㎡で重量108トン。
上部の多聞櫓は1868年の大火で焼失。

空堀
本丸を囲む内堀は、東から北、さらに西にかけて水堀となっているのに対し、南とそれに続く西にかけては水のない空堀となっている。
豊臣秀吉築城時も、徳川幕府再築の際も空堀で、その理由は不明。

桜門
本丸正面。
1626年徳川幕府再築城時に創建され、1868年焼失。
1887年に陸軍(armée de terre)が再建。
戦後に台風で倒壊し、1969年復元。
桜並木にちなんで豊臣秀吉時代に命名。
当時は今よりも西に位置。
門の両脇に見える巨石は龍虎石と言い、雨が降ると右に龍、左に虎が現れる。

残念石
1620年の大阪城再築時に小豆島で割られたまま用材石としての念願叶わず、放置されている石。

千貫櫓
大手口を守る隅櫓。
西側と南側は堀に面し、大手門に向かう敵を側面から攻撃した。

大阪城天守閣
現在の天守閣は1931年、大阪市民の寄付によって建設。
鉄骨鉄筋コンクリート造りで鯱鉾までの高さは54.8m
初代天守閣は1585年に完成したが、1615年の大坂夏の陣で城もろとも焼失。
2代目天守閣は1626年に徳川幕府により完成。
しかし1665年の落雷(coup de foudre)で焼失。
戦前に再建された天守閣は空襲を免れ、1997年に改修を行なった。

多聞櫓
大手口升形の石垣上に建つ櫓。
高さ14.7m、総面積710.25㎡
屋内は兵士や武器を蓄えることができ、升形内側の窓や大門をくぐる敵を真上から攻撃する「槍落とし」の装置が設けられた。

ラジオ塔
1938年に設置されたラジオ塔。
戦前は各地の公園や広場にラジオ聴取施設が設けられた。

大手門
1628年徳川幕府により創建。
正面左右の親柱の間に屋根を乗せ、親柱それぞれの背後に立つ控え柱との間にも屋根を乗せた「高麗門」形式。
屋根は本瓦葺きで、扉や親柱は黒塗総鉄板張。
親柱・控柱の下部は腐食により根継ぎが施されているが、正面右側の控柱の継手は、一見不可能にしか見えない技法が駆使されている。

大田口枡形の巨石
大手門をくぐって正面に位置する大手見付石は表面積50㎡
左の大手二番石は38㎡
右の大手三番石は36㎡
いずれも採石地は小豆島。

教育塔
1934年9月21日8:00室戸台風が大阪に甚大な被害をもたらした。
児童生徒や教職員らが学校内で犠牲になった。
これを受けて災害などで亡くなった生徒や学校関係者を慰める塔を建設。

新世界

通天閣
  • 大阪商工会議所会頭土居通夫が1900年のパリ万博から凱旋門の上にエッフェル塔を乗せた初代通天閣を1912年に建設。
  • 第二次世界大戦時に大破し、鉄材供給へ。
  • 1956年に内藤多仲が再設計。
  • 高さ108mの産業振興目的で建てられたシンボル的存在。
1903年、第5回内国勧業博覧会(5ème exposition industrielle)開催。
その際、当時の大阪商業会議所会頭(le chef de la chambre de commerce à Osaka)土居通夫がパリに飛び、パリ万博の仕組みを詳細に調査。
博覧会跡地にパリの凱旋門にエッフェル塔の上半分を乗せたようなデザインの初代通天閣を設計。

1943年に間近にあった映画館からの延焼火災で焼失し、1956年に再建。
高さは100m+8m(避雷針(le paratonnerre))で、設計者(dessinateur industriel)は東京タワーと同じ内藤多仲(ないとう たちゅう)。
用途は展望塔。

ビリケン(Billiken)
  • 1907年アメリカの美術教師(une enseignante des arts américaine)により誕生。
  • 彼女はビリケンが人々の希望と幸福の象徴になるようにデザインした。
  • 彼女自身が日本に興味があり、ビリケンも東洋美術の影響が見られる。
  • 1909年に日本伝来。
  • ビリケン像の足の裏をくすぐって笑えば利益がある。
    On chatouille sa plante du pied, s'il rit, il vous rend heureux.
元々はアメリカの美術教師でイラストレーターのフローレンス・プレッツ(Florence Pretz)によって1907年、親友の詩人(un poète)サラ・ハミルトン・バーチャルの作品である「ビリケンシリーズ」の為にデザインされたもの。
プレッツは、ビリケンが人々の希望と幸福の象徴になるようにデザインした(Elle a souhaité que Billiken devienne le symbole d'espoir et le bonheur pour des gens.)と言い、最初に粘土(argile)で製作したビリケン人形には、オマル・ハイヤーム(Omar Khayyam)の「ルバイヤート(Rubaiyat)」の一節(un poème)「Ah, Love, could thou and I with Fate conspire,...」を記した紙切れを入れていた。
プレッツ自身が日本に興味関心があり、ビリケンの造型には東洋美術の影響が見られる。

1908年の特許(brevet d'invention)取得後、契約の不備(des lacunes dans ces contrats)により、デザイナーであるプレッツには月に30ドルしか支払われず、彼女はビリケン自体に嫌悪感を抱くようになる。
当時の新聞では「ビリケンは作者以外全員に幸福をもたらした(Billiken a rendu tout le monde heureux sauf dessignatrice.)」と書かれた。

日本へは1909年頃に伝わり、1911年に大阪の繊維会社・神田屋田村商店(現・田村駒株式会社)が商標登録を行い、販売促進や商品キャラクターとして使用した。

ビリケン像の足の裏をくすぐって、笑えば利益がある
→足を触るとご利益がある。
(On chatouille sa plante du pied, s'il rit, il vous rend heureux.)