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千葉

千葉県 千葉市 香取市
面積 5,000㎢ 270㎢ 260㎢
人口 6,000,000人 980,000人 67,000人

目次


香取市

香取神宮
紀元前643年創建。
主祭神は経津主神(フツヌシノカミ)。
詳細は国譲り参照。
主要社殿は本殿・幣殿・拝殿が連なった権現造。 神社本庁の別表神社。

→第10代 山村新治郎(1908~1964)
←第11代 山村新治郎(1933~1992)
親子共に千葉県佐原市(現・香取市)出身。
息子の第11代山村新治郎は、1970年3月30日に発生した共産主義者同盟赤軍派9名による「よど号ハイジャック事件」で乗客129名の身代りとして人命を救った。

黄門桜
1648年、徳川光圀(家康の孫)によって植樹された桜。

楼門
1700年造営。
三間一戸の入母屋造。
Le type de toiture comprenant quatre longues pentes et deux pignons
現在の屋根は1940年に修理された銅板(le cuivre)葺だが当初は栩(le chêne)葺。
壁や柱は丹(l'oxyde de plomb)塗り。
随身像は正面向かって左が藤原鎌足、右が武内宿禰(たけうちすくね)。
藤原鎌足 武内宿禰
Un clan Fujiwara
en 7e siècle
Un homme d'État japonais
entre 71 et 399
随身裏手の狛犬は1934年に香取神宮の杉(le cèdre)で造立。

御神木
樹齢1000年を超える大杉。

拝殿・幣殿・神饌(しんせん)所
1934年から40年にかけて造営。
木造平屋建ての檜皮葺。
拝殿は黒漆塗り。
本殿正面から幣殿・拝殿と接続し、権現造形式となる。

本殿
1700年造営。
三間社流造、檜皮葺、この形式の社殿は最大級の規模。

三本杉
後冷泉天皇(在位1045~1068)御宇源頼義が参拝し
「天下太平社頭繁栄子孫長久の三つの願成就せば此の杉自ら三枝に別れん」
と祈願したところ、一株の杉が三枝に別れた。
以来これを三本杉という。

大正天皇御手植松実生
大正天皇が皇太子時代の1911年5月21日、御参拝の折、御手植されたクロマツの実生。
御手植松は100年余り続いたが2018年1月31日に虫害により伐採。

要石
地震は地中に棲む大鯰(un grand poisson-chat)が起こす。
要石は大鯰を抑える(pour retenir)守り神として現在に伝わる。
香取と鹿島の要石は大鯰の頭を尾を抑える杭(un piquet)と言われ、見た目は小さいが、地中部は大きく決して抜くことができない。
1684年に徳川光圀(家康の孫)が参拝した際、要石の周りを掘らせたが根元には届かなかった。

水郷佐原山車会館
佐原は17世紀頃から利根川舟運によって発展。
特に1716~36年の享保年間には山車と囃子を中心とする祭礼が行われるようになった。
7月と10月に二層構造の山車を曳いて町内を回る大祭。
2016年に「山・鉾・屋台行事」の1つとして、ユネスコ無形文化遺産(Le patrimoine culturel immatériel)登録。
佐原の山車は4輪(la roue)2層の曳山で、材料は主にケヤキ材(le zelkova)、他にヒノキ材(le cyprès)やカシ材(le chêne)を使用。
山車の高さ4mで更に4~5mの大人形が乗る。
山車を動かす時は、長さ4m重さ20kgの丸太(le rondin)2本を山車と車輪の間に差し込んで方向を変えたり停止(freiner[フレネ])させたりする。

佐原の祭り
佐原には、本宿の八坂神社の祇園祭り(7月10日以降 金土日)と、新宿の諏訪神社の秋祭り(10月第2土曜日を中日とする3日間)がある。
祭りは、始めは、花傘や花万燈が神輿について行なわれていたが、山車を引くようになり、1721年には山車番組を組むほどになった。
江戸時代末期には、赤松宗旦が利根川図志に「この両祭、至って賑はしく、何れも二重三重の屋台十四、五輛づつ花をかざり、金銀をちりばめ錦繍の幕を懸け、囃子ものの拍子いとにぎやかに、町々をひきまわる。見物の群集人の山をなし、まことに目ざましき祭なり。」と書くほど、盛んになった。
祭りは、その年の米作の豊凶によって就行が決められた。
昔は、必ず山車が行列を組んで、町中を練り歩いたが、今は例祭には町中を自由に引き廻し、本祭には山車番組を組んで町中を練り歩く。

祭を支えた力
佐原は、江戸時代に、利根川水運の重要な河港として栄え、18世紀後半には、戸数1,300軒余、人口5,000人を越える関東でも有数の町となった。
米穀などの集散はもとより、醸造業も盛んで、最盛期には酒造家35軒、醤油醸造家14軒を数えるほど。
明治に入ってからも佐原の経済活動はめざましく、1880年の郵便為替取扱高は13,200円で県下第1位、人口は7,000人で、飯沼町(現銚子市)に次いで第2位だった。
また、江戸時代の佐原は自治の気風が強く、地頭(村を治める旗本)がたびたび祭りを禁止しても、いつも町民は団結してそれを跳ね返した。
佐原の祭りは、このような町の経済力と町民の自治精神によって支えられ、発展してきた。

山車と飾り物
山車とは、祭礼に引く山・鉾・人形・鳥獣・草木などを飾った屋台のことで「出し」の意と解され、出しの部分に神が降り立つ目標(依代)とされる。
山車は、欅を主な材料として作られ、高欄を配し、四方を藁のしめ縄や天幕で巡らす。
これは、山車が宮座を現している為。
床(一般に大天井と呼称)には、飾り物が施される。
この飾り物は、古くは風流物として年々新しく作られたが、幕末に江戸の職人が豪華な人形を造り一定した。
山車は各町内により四方同型造や升型造などがある。

佐原囃子
山車には、大太鼓1名、小太鼓1名、大鼓1名、小鼓4~5名、笛4~5名、すり鐘1名で編成した下座連が乗り、囃子を奏する。
佐原囃子は、里神楽囃子を基に、江戸時代に発達したもので、千葉県無形文化財に指定されている。
昔は農家の長男に限って伝承されてきたが、今は広く愛好者によって受け継がれている。
佐原囃子の曲目は、役物、段物、端物に大別される。
役物では、山車の引き出しと、引き仕舞に奏される「さんぎり」「馬鹿囃子」、曲がり角通過時には「はな三番叟」が奏される。
段物とは、大太鼓の入らない荘重な曲で「吾妻」「八百屋」「お七」「神田」等。
流行歌、民謡など歌のある曲を端物と言い「あんば」「大漁節」「船頭小唄」「ラッパ節」等がよく奏される。

山車人形迫り出し仕掛けについて
別名「神楽桟」
佐原の山車の大人形は、江戸の山車よりも大きなものを作ろうという町衆の考え方と、江戸、東京の人形師たちが、制作の限界までの大きさを競い合った作品が数多くある。
明治に入り、町に電柱が建ち電線が張られると、山車人形の扱いも障害物を避ける工夫が施されるようになった。
現在は殆どの山車がワイヤーを使用した小型のウインチを備えているが、明治から昭和にかけてこの神楽桟を利用した迫り出し仕掛けが、山車の運行に大きく活躍した時代があった。
この神楽桟迫り出し仕掛けは浜宿区が山車を新造するについて、旧山車を解体した折に取り外したもの。
仕掛けは、展示場所の都合により一部山車に取り付けられていた状況と異なるが、人形が上下に動く原理は同じ。
なお、山車により人形を支える柱が1本と2本の2種類の型がある。

格天井彫刻「龍十八態」
格厚さ一寸五分(4.5cm)の欅材に、木彫師菊池侊藍が表情・動きの豊かな龍を掘り上げた。
四隅「日月星辰(じつげつせいしん)」を表す四態の龍を配置。
「日」の龍には炎の翼、「月」の龍には波型の翼があり、陰陽を表す。
「星」「辰」には若い龍が対となっている。
これら以外の十二態は春夏秋冬
  • 春…二月、三月、四月
  • 夏…五月、六月、七月、八月
  • 秋…九月、十月
  • 冬…十一月、十二月、一月
を表し、季語を基にした気候や情景をイメージした龍の姿が彫られている。
正面と後面中央には阿吽型の雌雄龍が配されている。
この格天井彫刻は全体で四季の巡りを表すとともに、生物の一生を表している。
あらゆる命が循環していくように、東関戸区ひいては佐原の町全体が永代発展・隆興していくことを願うもの。

大楠公
東関戸区の山車は1935年、東西関戸が各々山車を造ることになり、市内八日市場区の太田棟梁一門の手により建造。
総欅造り、四方正面造り。
山車の大天井には大人形「大楠公」楠木正成が飾られ、その姿は「太平記」の一節、桜井の駅で我が子正行に行く末を諭して兵庫の湊川へ出陣する姿を日本画家・横山大観の「楠木正成の像」を参考に、東京の大柴護豊により製作。
彫刻は南北朝時代に活躍した武将たちを顕したもので、正面の額の彫刻とともに江戸彫刻の名工・金子光清の作。
額の文字「純正」は、陸軍大将・荒木貞夫の揮毫。


le faucon
鷹の出し物が初目見えしたのは1751~62年の祇園。
以来250年、町内民あげて鷹作り技法は受け継がれ、現在においても5年間隔で製作されている。
材料は稲藁100束と藁縄30巻で、骨格部分は竹組み。

利根川
新潟県と群馬県の県境にある大水上山(標高1,840m)を水源とし、関東地方を北から東へ流れ太平洋へ注ぐ全長322Kmの一級河川。
日本で信濃川(367km)に次ぐ2番目に長い河川。

伊能忠敬記念間
伊能忠敬(1745~1818)は、1800年から1816年までの17年間で日本全国を測量。
73歳で死去した後、弟子たちが遺志を受け継いで1821年に日本地図を完成。
九十九里で産まれた忠敬は1762年の17歳の時に香取市佐原の伊能家へ婿入りし当主になる。
婿養子...beau-fils adopté
以来30年間、家業の繁栄に努め、49歳で隠居し幕府の天文学者(astronome)へ弟子入り。
55歳から71歳まで10回にわたって日本列島測量の旅に出る。 測量で伊能忠敬は35,000kmも歩いた。