京都府
京都府 | 京都市 | 宇治市 | |
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面積 | 4,600㎢ 【31位】 |
827㎢ | 67㎢ |
人口 | 2,500,000人 【13位】 |
1,400,000人 | 177,000人 |
人口密度 | 550人/㎢ 【10位】 |
1,750人/㎢ | 2,625人/㎢ |
目次
- 概要
- 下京区【京都タワー】
- 右京区【龍安寺・嵐山】
- 中京区【二条城・錦・先斗町・鴨川】
- 上京区【西陣織センター】
- 北区【金閣寺】
- 左京区【銀閣寺・南禅寺・蹴上】
- 東山区【清水寺・祇園・八坂・東福寺】
- 伏見区【伏見稲荷】
- 宇治市【平等院・炭山】
京都という街
- 概要
-
794年から1869年までの1,000年以上もの間、日本の都が置かれた歴史ある街。
※1869年5月9日に明治天皇が東京に到着【東京奠都】
盆地(la cuvette)の為、夏は暑く冬は寒い。また、昼と夜の温度差も激しい。
最高気温は約33度(8月)、最低気温は1.2度(1月)。
中国の京都、長安や洛陽を参考に作られた街並みは碁盤の目状(à carreaux)な道路が特徴。 - 古都京都の文化財
-
1994年に日本で5件目の世界遺産として登録。
京都府京都市、宇治市、滋賀県大津市の2府県3市に点在する構成遺産17件からなる。
国宝建造物(★)があるか、庭園が特別名勝(◎)に指定されているもので構成。
一部は特別史跡(■)にも指定。
寺社仏閣の数は多いが、世界遺産の件数としては1件。 - 賀茂別雷神社(上賀茂神社)(★)
- 賀茂御祖神社(下鴨神社)(★)
- 教王護国寺(東寺)(★)
- 清水寺(★)
- 延暦寺(★)
- 醍醐寺(★)
- 仁和寺(★)
- 平等院(★)
- 宇治上神社(★)
- 高山寺(★)
- 西芳寺(苔寺)(◎)
- 天龍寺(◎)
- 鹿苑寺(金閣寺)(◎■)
- 慈照寺(銀閣寺)(★◎■)
- 龍安寺(◎)
- 西本願寺(★◎)
- 二条城(★◎)
-
京都には3,000の寺と1,800の神社がある。
※2021年における京都府公式統計参照。
東寺は796年創建の真言宗寺院。
西本願寺は1591年創建の浄土真宗寺院。
京都で最も古い寺院は、太秦にある603年創建の広隆寺だが818年の火災で全焼。
1165年に再建されている。
京都で最も古い神社は北区にある上賀茂神社で創建は677年。
軽微な損傷はあれど、全壊は免れている貴重な神社。 - 西本願寺と東本願寺
-
古都京都の文化財として世界遺産登録されている寺社の一つに西本願寺が挙げられるが、東本願寺はリストに入っていない。
本願寺の対立
明治期以降に再建。 - 建物の高さ制限
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1919年、京都市は居住地域内は20m、居住地域外は31mという制限を設けた。
1970年、1973年、1996年、2003年、2007年と基準が変わっていった。
10m~45mの間で規制が強化されたり緩和されたりを繰り返した。
旅行者数【2019年】 | ||
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地域 | 旅行者全体 | 内外国人客 |
京都府 | 87 millions | 9 millions |
京都市 | 53 millions | 8 millions |
東京都 | 555 millions | 15 millions |
下京区
- 京都タワー
-
1953年、京都中央郵便局移転。
跡地に株式会社京都産業観光センター設立。
設計は建築家の山田守氏(代表作:永代橋、聖橋、日本武道館)。
1964年開業。
高さ131mで展望台は100m地点。
その構造は、鉄骨を一切使わず、厚さ12mm~22mmの特殊鋼板シリンダーを溶接で繋ぎ合わせ、円筒型の塔身を造った(モノコック構造)となっており、タワー外部に仮設タワーとクレーンを設け、引き上げを行った。
工期は約1年10ヶ月、総工費は38億6,400万円。
タワーの姿は、市内の町屋の瓦葺きを波に見立て、海の無い京都の街を照らす灯台をイメージ。
建設当初から古都京都に相応しくないとしてタワー建設に賛否が分かれていた。
元々京都には「当時の塔(55m)よりも高いものは建てない」という不文律があり、タワー建設にあたり政財界中心の推進派と学者や文化人主導の反対派が世論を二分した。
これは日本における都市美観論争の原点である。
結局、高さなどの法規制が厳しく、建築物ではなく「工作物(une oeuvre)」として建設されたが、1972年に施行された「京都市景観条例」に制定された巨大工作物規制区域設定の1項目として活かされることとなった。- 1994年 ホテルオークラ京都
- 1997年 京都駅
- 1998年 京セラ本社ビル
- 2003年 日本電産本社ビル
右京区
- 龍安寺
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1450年 細川勝元seigneurによって建てられた禅寺。
1467年~1477年 細川勝元と山名持豊らが争った応仁の乱で焼失。
1499年 勝元の子政元により再興。
1975年 イギリスのエリザベス2世が来日した際、龍安寺の石庭を絶賛(admirer)し、世界的な禅ブームが起こり、現在も世界一の禅寺として有名。
1994年 「古都京都の文化財」を構成するひとつとして世界文化遺産登録。
櫓建築(石庭入り口は台所で、天井が高く煙が逃げる仕組み)
5月は藤の花が見ごろ。 - 石庭
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石庭は幅25m、奥行10mほどの空間に白砂(sable blanc ou des graviers blancs)を敷き詰め、東(左)から(5個、2個)、(3個、2個)、3個の合計15の石を配置する。
別名「七五三の庭」
古来より奇数(impair)は縁起の良い数字として好まれた。
Le jardin sec est utilisé dans les temples Zen pour la méditation.
A votre avis, que représente un jardin sec ?
Le sable blanc représente l’océan.
Les rainures représentent les vagues.
Les rochers représentent les montagnes.
七五三説の他、石の配置が「心」の字に似ていることから心説、京都五山を模したという京都五山説、満月を表した満月説、虎の子渡し説がある。
日本庭園は自然の風景を限られた空間の中で再現する。
室町時代(1336年~1573年)に多く出現した枯山水庭園は、坐禅し精神統一していると、水ではないものにも水を感じることができるようになる。
という禅の精神性と結びついた庭園様式。
京都の2/3が消失した応仁の乱で失われた池泉庭園を復興するのは大変だった。
当時は電動ポンプ(pompe)も無く、コンクリートも無い為、水が澱む(stagner[スタグネ])。
そこで、水を使わない石庭が作られるようになった。 - 虎の子渡しの庭
-
虎は3匹の子供がいると必ず1匹は獰猛で、子虎だけにしておくと他の子虎を食べてしまう。
そこで、母虎が3匹の子虎を連れて大河を渡るときは次のようにする。 まず、母虎は獰猛な1匹を対岸へ連れていき、引き返して残り2匹の内1匹を対岸へ連れていく。
対岸で1匹を置いたら、先に連れてきた獰猛な1匹を元いた岸へ連れていく。
獰猛な子虎を置いて、残りの1匹を対岸へ連れていく。
最後に、元いた岸へ戻り、獰猛な1匹を対岸へ連れていく。 - 蹲踞(つくばい)
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茶室に入る前に手や口を清める手水鉢のこと。
中央の口を組み合わせると、
「吾唯足ることを知る」と読み、
「満足する事を知る人は外見が貧しくても心豊かで幸せな人、満足する事を知らない人は外見が豊かでも心が貧しく不幸せな人。」
という禅の精神を表した言葉。
「Ne vivez pas dans le luxe, ne se plaignez pas, il faut savoir que l’on est content la vie simple.」
禅は13世紀に中国から伝わった。
元々は、インド出身で中国に渡った達磨によって開かれた禅宗の修行方法、坐禅に由来。
禅宗は人間に本来備わっている仏性を再発見する為に座禅を組んで修行する。
禅の精神は、茶道や華道、剣道など「道」が付く文化の基となる。
謙虚に一つの事を極めること。
ただ座って何も考えない。
何のため ?という念は排除する。 - 侘助椿
- 16世紀後半、侘助という人物が朝鮮から持ち帰った日本最古の椿。
- 分水石
- 境容池のふたつの石は水深を図るメジャーの役割を担っている。
- 渡月橋
-
最初は、嵐山の麓にある法輪寺の中興の祖である僧道昌(どうしょう)によってかけられた。
法輪寺に至る橋だった為、「法輪寺橋」と呼ばれ、現在の渡月橋よりも上流200mに架橋された。
鎌倉時代、亀山天皇が満月の晩にこの地で舟遊びをし、そこからこの橋を眺め、
「くまなき月の渡るに似る(曇りのない夜空に、満月が橋を渡っていくようである)」
と感想を漏らしたことから、渡月橋と呼ばれるようになった。
渡月橋付近の桂川(大堰川)は昔から洪水になりやすい土地。
洪水や応仁の乱などの戦乱でも落ちた。
その度に橋は架け直され、やがて現在の位置に移った。
今に残る渡月橋の原型は、1606年に豪商の角倉了以(すみのくらりょうい)によって作られたもの。
現在の渡月橋は1934年6月に架けられたもの。
木造に見えるが、欄干部分のみが国産ヒノキで作られている。
橋の根幹部分は鉄筋コンクリート製で、景観と生活橋としての機能性を両立している。
- 天龍寺
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臨済宗天龍寺派大本山
釈迦如来
平安時代初期、嵯峨天皇の皇后橘嘉智子が開いた檀林寺があった。
その後約4世紀を経て荒廃していた檀林寺の地に亀山天皇が亀山殿という離宮を営んだのが13世紀。
天龍寺としての創建は1345年、足利尊氏が後醍醐天皇の菩提を弔うために亀山殿を寺に改めたことに端を発する。
元々、尊氏は天皇の始めた建武の新政に反発して反旗を翻し、対する天皇は尊氏追討の命を出している。
しかし、1339年に後醍醐天皇が崩御すると、禅僧夢窓疎石の強い勧めで、尊氏が天皇の菩提を弔う寺院を建立した。
名称の由来は、尊氏の弟・直義が寺の南を流れる保津川に金龍の舞う夢を見たからであり、寺の建設資金調達の為、天龍寺船という貿易船が仕立てられた。
天龍寺は6回の火災と応仁の乱、1596年の慶長伏見地震などで倒壊し、現存伽藍の大部分は明治時代後半以降のものである。
中京区
- 二条城
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1600年の関ヶ原の戦いで勝利した徳川家康が1601年から上洛時の宿所として築城。
1603年に完成し、徳川家の居城となる。
当時、天皇は徳川家に政治を委任していた。
L'empereur déléguait la politique à la famille TOKUGAWA.
唐門の彫刻は中国神話の動物がモチーフ。
龍は海、虎は山の守護獣で、中国大陸を意味している。
二の丸御殿内は写真禁止。
1994年に「古都京都の文化財」を構成するひとつとして世界文化遺産登録。 - 東大手門【重要文化財】
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二条城の正面にあたり、現存の門は1662年頃の建築。
築城当時は現在のように櫓門(2階建て)だったが、寛永(1626年)の二条城行幸時には天皇を2階から見下ろさないようにとの配慮から、一重の門に建て替えられた。
regarder en bas. - 唐門【重要文化財】
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二の丸御殿の正門にあたり、切妻造、桧皮葺の四脚門でその屋根の前後に唐破風が付く。
門には長寿を意味する「松竹梅に鶴」や、聖域を守護する「唐獅子」など、豪華絢爛な極彩色の彫刻を飾る。
2013年の修復工事によって、往時の姿に甦った。 - 二の丸御殿【国宝】
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東南から北西にかけて、遠侍、式台、大広間、蘇鉄の間、黒書院、白書院の6棟が雁行形に立ち並ぶ御殿。
部屋数33室、800畳余りもある内部は、代表的な「松鷹図」をはじめ、将軍の威厳を示す虎や豹、桜や四季折々の花を描いた狩野派の障壁画(模写画)で装飾されている。 - 遠待(三の間、二の間、一の間)
-
来殿者(des invités)が控える部屋。
獰猛な虎の絵や壮大な空間は徳川家の権力の大きさを表す。
TOKUGAWA a montré sa puissance aux invités. - 式台(式台の間)
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将軍への用件や献上物を取り次ぐ場所。
Ce sont des pièces intermédiaire.
老中と大名が挨拶し、将軍への取り次ぎが行われた部屋。
障壁画には、永遠に続く繁栄を表す植物として松が描かれている。
Le pin est le symbole de la prospérité éternelle. - 大広間(二の間、一の間)
-
大政奉還が行われた部屋。
将軍と大名や公卿衆(le ministère supérieur)との公式対面所。
一の間は上段、二の間は下段。
将軍は一の間に南向きに座す。 - 黒書院(三の間、二の間、一の間)
-
別名小広間で大広間に次ぐ公式の場。
将軍と徳川家に近しい大名や高位の公家等が対面。 - 白書院(二の間、三の間)
-
将軍の居間と寝室。
水墨画に包まれた空間は他の棟と趣が異なり、落ち着いた印象。
中国の題材が選ばれ、一の間と二の間には西湖が、三の間には伝説や歴史上の人物が描かれている。 - 大広間(四の間)
- 将軍上洛の際に武器を収めた場所。
- 式台(老中の間)
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3部屋からなり、老中が控えていた部屋。
※老中=C’est une des plus hautes fonctions dans le gouvernement.
- 錦市場
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全長390mを有する歴史ある商店街。
「京の台所」として親しまれている。
平安時代に豊富な地下水を利用して京都御所へ新鮮な魚を納める店が集まったのが起源。
昭和期には中央卸売市場の開設、地下水の枯渇、大手スーパーマーケットの進出などで存続の危機を迎えたが、卸売りから小売へとシフトしていくことで現在に至る。
新鮮な旬の食材を扱い、品質の良さや種類の豊富さが市民から支持され、高品質が故の高単価にも納得している消費者も多い。
また、そんな品質を維持するためにも「錦市場」の商標登録を取得している。
アーケードに覆われた石畳の商店街東西390mには商店街振興組合に所属する約130店舗が軒を連ね、ここで業務用の食材を仕入れる割烹も少なくない。
2006年11月3日、錦市場商店街振興組合はイタリアのトスカーナ州フィレンツェ市公設の中央市場と友好提携を結んだ。
- 先斗町
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1670年に鴨川の護岸工事で埋め立てられ、新河原町通と呼ばれていた。
1712年に高瀬川を上り下りする高瀬舟の船頭や旅客目当ての旅籠屋が茶立女をおいた水茶屋が初めて設けられた。
1859年、芸者稼業の営業許可が正式に下り、花街として栄えた。
- 名称の由来
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ポルトガル語のponta=先、ponte=橋、ponto=点に由来。
鴨川と高瀬川の川(皮)に挟まれた堤(鼓)に例えて「ポン」と鳴る様に由来。
- 北京料理
東華菜館 -
学校や教会建築を多く残したアメリカ人建築家ウィリアム・メレル・ヴォーリズ(Wiliam Merrell Vories)が1926年に手掛けた唯一のレストラン建築。
氏は1880年にアメリカで生まれ、1905年に英語教師として滋賀県近江八幡市へ赴任。
しかし、新都伝道者(le laïc[ライック])でありプロテスタント(le protestantisme)の布教(propager)が生徒に及ぼす影響を危惧され、学校を去る。
1908年に京都で建築事務所を設立し、日本各地で西洋建築の設計を多く手掛ける。
1941年に帰化し、華族の令嬢と結婚。
- 鴨川
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京都市内を南北に流れる全長31kmの一級河川。
元々は賀茂氏の本拠地であり、上賀茂神社と下鴨神社はその氏神を祀る。
これは、後世における推論の域を出ないが、鴨川は風水の四神相応から東限とされている。
- 玄武=山
- 青龍=川
- 白虎=道
- 朱雀=沢
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京都市は1980年以降、三条大橋と四条大橋の中間に歩行者専用の新たな箸を架ける計画をしている。
架橋予定地の東側では街の活性化に繋がるという賛成意見が多いものの、対岸にあたる先斗町界隈の西側では地域が橋の通り道になって景観が損なわれるという反対意見が多い。
1966年、京都を訪問したジャック=シラク大統領は桝本頼兼(ますもとよりかね)京都市長との会談で、セーヌ川のポンデサールを模した橋を鴨川に架けることを提案した。
これは、1998年が日本におけるフランス年にあたることと、京都市とパリ市の友情盟約締結40周年にあたることから、記念事業としての構想だった。
当然、新たな名所ができることを喜ぶ賛成派と、フランス風の橋が景観を損ねるとする反対派に世論を二分した。
また、フランスのLe Monde紙も計画を批判する記事を出すなど、京都市外も巻き込んだ大論争となり、結局1998年に京都市は計画を白紙撤回した。
鴨川と言えば納涼床や川床とも言われる夏の風物詩も有名で、5月から9月にかけて二条大橋から五条大橋にかけて鴨川西岸の料理店では、河原に張り出した木組みの床が設けられる。
以前は京友禅を鴨川の流れに晒す「友禅流し」が行われていたが、水質悪化などが問題となり1970年代に中止された。
上京区
- 西陣織
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西陣=position d’ouest+織=tissage
5、6世紀頃大陸からの渡来人が京都に住みつき、養蚕と絹織物の技術を伝える。
平安時代、朝廷(cour impériale)は絹織物職人(artisan de soierie)たちを組織して高級織物(tissu haut de gamme)を生産させた。
平安時代中期以降、律令政治にタガが緩み始め、職人たちは自分たちの仕事として織物業を営むようになり、朝廷の需要に応えながら一般の公家や武家などの注文にも応えていた。
室町時代中期、応仁の乱が起こり、多くの職人たちは戦火を逃れて和泉の堺などに移り住む。
戦乱の後、彼らは再び京都に戻り、織物業を再開する。
この地が応仁の乱の際、西軍の本陣、つまり西陣(position d’ouest)だったため、この名が付いた。
また、大陸伝来の高機(たかはた)という技術を取り入れ、先に染めた糸を使って色柄や模様を織り出す紋織(もんおり)が可能になった(On fait le tissage après avoir tient le tissu.)。
しかし、江戸時代中期以降、飢饉(famine)で世の中が不安定(instable)となり、幕府による奢侈(しゃし)禁止令もあって需要が減少。
また、大火や丹後、桐生などの新しい絹織物産地が生まれ、明治になって首都が東京に移ったことで京都の街全体が勢いを失った。
そこで、人材(talent)をフランスに派遣し、ジャカード織物(jaequard)などの技術を取り入れ、近代化に成功。
大正や昭和期に高級絹織物の大衆化を進めると同時に、伝統的な手織技術の高度化やデザインの洗練にも努め、我が国の高級織物業の代名詞としての地位を確かなものとした。
現在では、伝統的な帯地や着物に限らず、ネクタイやショール(le châle)、和製小物などの材料用としても格調高い優れた製品を生産。
北区
- 金閣寺
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臨済宗相国寺派寺院
1994年に「古都京都の文化財」を構成するひとつとして世界文化遺産登録。
1397年、室町幕府3代将軍足利義満が元々あった西園寺を改修して作り上げた。
将軍の邸宅であり政治の中心としての役割も担った。
金閣寺は木造3階建てで、20kgの金を使い装飾され、将軍の権力を示した。
当時日本では金が大量に採れ、中国との交易も盛んだった為、交易の象徴として舟形を置いている。
マルコポーロも東方見聞録(La Description du Monde)で日本を「黄金の国ジパング」と称している。
義満が8歳の時に父が死期を悟り義満に政務を委譲し、3代将軍として足利家を継ぐ。
政治等は足利一門の守護大名(seigneur)が補佐した。
義満は中国の明との正式な通交を望んでいたが、明側が天皇との直接交渉でないと認めない旨を表明した為、この時点での貿易は成らなかった。
そこで義満は出家し、自由な立場となって僧を使節として明へ派遣。
日本の懐良親王の勢力がすでに没落していたことも相まって明朝2代皇帝建文帝は義満を日本国王と認め、日本国王が明朝皇帝に朝貢する形をとった勘合貿易が1404年から始まった。
※勘合貿易(日明貿易)=1401年~1549年まで19回にわたり交易が行われた。
1397年、西園寺家(une famille noble)から京都北山を譲り受け、舎利殿(金閣)などの山荘を造営した。
1399年春以降、義満は本格的にこの山荘に移り住み、武家様、公家様、唐様が融合した北山文化を開花させた。 - 3階...中国の禅宗様式
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義満は中国皇帝朱元璋を尊敬していたので、中国の禅宗様式を用いることで中国の皇帝を敬い、皇帝の教えを学び実行しようとする自分もまた同じく尊い存在であると意識。
部屋の中央に仏舎利(une urne)が安置されているが釈迦の骨は納められていない。 - 2階...武士
- 中央に仏壇、その上に岩屋観音坐像と四方を守護する四天王立像。
- 1階...公家(noblesse)
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当時の貴族よりも将軍の地位が上であったことを表している。
宝冠釈迦如来像と足利義満坐像が並べて安置されており、義満が仏の世界と合わせて現実世界の支配をも表現している。
1階のみ金箔が施されていないのは、寝殿造で「公家」や「遺族」を表現し、国を治めるのは武士であり、無駄に国力を浪費するだけの公家は不必要という考え。 - 駐車場は番号で覚える。
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入場券の説明(文字)。
受付を通って左手奥の写真ポイントで撮影し、順路を回る。
C’est une anulette de protection contre le mauvais sort si vous l’accrochez sur un mur. - 鯉の滝登りの瀧。
- 白蛇(裕福の象徴)の塚は金閣寺建立以前から存在。
- 金閣寺裏側のケーブルは避雷針(le paratonnerre)。
-
1950年、見習い僧侶の林承賢により放火(incendier)。
建物及び仏像や経巻等文化財6点が焼失→国宝指定解除。 - 放火の動機
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自身が病弱(maladif)で吃音症(bégaiement)。
不幸な生い立ちに対して、金閣における美の憧れと反感。 -
実家の母からの過度な期待。
Sa mère a beaucoup exercé une pression sur lui. -
観光客の参拝料で運営されていることにより、僧侶より事務方が幅を利かせている。
1952年着工→1955年竣工 - 庭園
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金閣のある鏡湖池を中心とし、葦原島など大小の島々や、当時の諸大名がきそって石を献納してその名が付けられた畠山石や赤松石、細川石などの名石が配されている。
西の衣笠山を借景とした庭園は室町時代の代表的な池泉回遊式庭園で、国の特別史跡及び特別名勝に指定されている。
足利義満は、金閣寺を建てることで、この地に極楽浄土を表現した。
方丈の北側には京都三松の一つで舟形をした「陸舟の松」があり、義満が自分で植えたと伝えられている。
金閣の後を進むと、義満がお茶の水に使ったと伝えられる「銀河泉」、手を清めた「巌下水(がんかすい)」があり、それに隣接する「龍門の滝」は、鯉が滝を登ると龍になると言われる中国の故事「登竜門」に因んだ「鯉魚石(りぎょせき)」が置かれている。
「安民沢」は古くからある池の名前で、中の島には「白蛇の塚」がある。 - 鳳凰
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鳳凰は中国の伝説上の生き物で、権力や永遠の命の象徴。
また、天帝の使者(un émissaire)で、徳の高い君子が天下を納めると、どこからともなく出現すると言われる。 - 陸舟の松
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義満が植えた樹齢600年の松。
京都三大松(金閣寺「陸舟の松」、吉峯寺「遊龍の松」、宝泉院「五葉の松」)のひとつ。
Au Japon les pins sont considérés comme des arbres sacrés car ils peuvent rester verts(常緑) même sous la neige de l’hiver alors que la plupart des autres arbres ont perdu leurs feuilles.
Le pin est un signe de longue vie et d’endurance(忍耐力).
Les pins sont souvent représentés sur les Kimonos.
(松文様の写真) - 茶室(maison de thé)
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Cette salle s’appelle 夕佳亭, regardez la belle vue sur le pabillon d’or.
Cette salle de thé n’a pas été construite au temps de Shogun Yoshimitsu, mais à l’époque d’Edo au 17ème siècle à la demande d’un ancien guerrier devenu moine qui s’appelait Kanamori Sowa(金森宗和). - 夕佳亭
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江戸時代の茶道家金森宗和が好んだ数寄屋造りの茶席で、夕日に映える金閣が殊に佳い(よろしい)という事から「夕佳亭」と名付けられた茶席で、正面の床柱が有名な「南天の床柱」。
その右にある三角の棚が「萩の違棚」、中央の古木が「鶯宿梅(おうしゅくばい)」。
1997年、解体修理が行われた。
茶席の前の石灯籠と富士形の手水鉢は、慈照寺の「銀閣」を建てた足利八代将軍義政が愛用したものと言われ、茶席横の「貴人榻(きじんとう)」は身分の高い人の椅子という意味。 - 南天の床柱
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夕佳亭内に据えられている南天の木でできた柱の事。
南天の木(Le bambou sacré/Nandina domestica)は非常に長寿で柱として最適。
太く育つのは稀だが、件の南天は直径10cmで樹齢は1,200年程。
南天を「難転」をとらえ、災いを転じる意。 - 不動堂
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石造不動明王を祀る1225年に建立された御堂。
金閣寺が西園寺家の所有だった頃の建立。
御堂内の石造不動明王像は空海の作。
上半身、特に眼の病気平癒にご利益がある。
左京区
- 銀閣寺
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1473年に室町幕府8代将軍足利義政(義満の孫)が退位し、1482年に東山に別荘を建てた。
1490年に義政が死去し、彼の別荘を寺に改めたのが現在の銀閣寺。
銀閣寺と言いながら、創建当初から銀は使っておらず、金閣寺との対比として2つで1つの認識。
義政はわびさび(simplicité, moins de décoration)が好きで、過度な装飾を避けた。
庭園は銀沙灘などが満月の時に銀色に輝くことも銀閣と言われる所以。
境内は17:00に閉園する為、月明かりを体験できないので残念。
出口の売店は京都随一の品揃え。
- 哲学の道
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20世紀初期の哲学者(philosophe)で京都大学教授だった西田幾太郎(きたろう)が毎朝この道を歩いて思想に耽っていたことに因んで名付けられた。
付近の白川が標高に従って北から南へ向かって流れている一方で、人工的に作られたこの琵琶湖疎水は、南から北へと流れている。
- 南禅寺
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1291年、亀山法皇が無関普門禅師(大明国師)を開山に迎えて開創された臨済宗南禅寺派の大本山寺院。
亀山法皇は1249年に後嵯峨上皇の皇子として誕生し、10歳の時に第90代亀山天皇として皇位に就いた。
蒙古襲来などの国難を乗り越え、1289年に離宮禅林寺殿で出家し、法皇となる。
1291年には離宮を禅寺とし、南禅寺が開山されたが、同年12月に無関普門善師が死去。
亀山法皇は後任として規庵祖圓禅師(南院国師)を選任。
当時、禅寺と言っても伽藍として機能するものが無かった為、規庵祖圓禅師によって1305年に伽藍の建立整備がほぼ完成する。
教義は、教えの他に体験によって別に伝えるものこそ禅の真髄であり、
「経典の文字を離れてひたすら座禅によってお釈迦様と同様な悟りを得なさい。」
というもの。
つまり、お釈迦様の教えは文字や言葉だけでなく、心から心へと伝える以外に方法は無く、教えてもらって得るものではなく、絶えず自分自身をよく見つめ、自分自身が経験し、体得するものである。
臨済宗ではこの教えを根本教義としている。 - 虎の子渡しの庭
-
大方丈の背後に接続した小方丈は、1624年から1644年の建築で、内部に群虎図【重要文化財】40面がある。
大方丈前面の庭園は「虎の子渡しの庭」と呼ばれ、小堀遠州の作。
"どのような子であっても親は愛情を均しく注がなければならない。" - 小堀遠州
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本名小堀政一。
大名、茶人、建築家、作庭家、書家。
「遠州」は武家官位の受領名の遠江(とおとおみ)守に由来する通称。
- 蹴上インクライン
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全長582mの世界最長の傾斜鉄道跡で、高低差36mの琵琶湖疎水の急斜面で、元々は船を運行するために敷設された鉄道跡。
1891年から1948年まで実用に供されていた。
京都と大津を結ぶ舟運の疎水だったが落差の大きい場所は船が運行出来ない為、台車に船を乗せ、蹴上発電所の電力による巻き上げ機で運転された。
640mを10分から15分で通過した。
一般的に落差がある場所で船を運行させる方法は以下の3つ。-
ロック(閘門)方式
船を水門と水門で区切った閘門に入れ、水を排水したり増水したりして船を低い方から高い方へ進める。
パナマ運河、テムズ川等。 -
インクライン方式
勾配のある水路にレースを敷き、台車に船を乗せてケーブルカーのように引っ張り上下させる。
台車に直接船を乗せるドライ式と、水を張ったケージに船を入れるウェット式があり、蹴上インクラインはドライ式を採用。 -
リフト方式
運河に船を積載できるリフトを造り、エレベーター方式で上下させる。
1960年3月をもって電気設備も撤去され、完全に稼働停止。
1973年には送水管を敷設する為に残っていたレールも撤去されたが、産業遺産として保存する為に1977年5月に復元。
現場には復元された台車が2台残されており、1996年には国の史跡に指定された。
沿線には約90本の桜が植樹されている。 -
ロック(閘門)方式
東山区
- 清水寺
- 778年、奈良の僧賢心が夢で北へ清泉(l'eau pure)を求めるようお告げを受ける。
- 京都の音羽山で滝を見つける。
- 音羽山で僧行叡と会う。
- 行叡は賢心に霊木を授け、観音像を彫刻し、お堂を建てるように命じる。
- 2年後の780年、鹿狩りに訪れていた坂上田村麻呂の殺生を戒め、寺院を建立。
-
778年、奈良で修行を積んだ僧賢心(けんしん=後に延鎮と改名)の夢に老翁が現れ、「北へ清泉(l’eau pure)を求めて行け」とお告げをし、賢心は北へ向かう。
やがて京都の音羽山で清らかな水が沸く瀧を見つける。
そこで老仙人行叡居士(ぎょうえいこじ)と出会い、千手観音像を彫ってこの観音霊地を守るように告げられ、霊木を授かる。
賢心は「行叡は観音の化身だ」と悟り、以後音羽山を観音霊地として守った。
それから2年後、鹿狩りに音羽山を訪れた武人坂上田村麻呂が音羽の瀧で賢心と出会う。
賢心は坂上田村麻呂に観音霊地での殺生を戒め、観世音菩薩の功徳(sermon)を説いた。
坂上田村麻呂はその教えに深く感銘を受け、十一面観音菩薩を御本尊として寺院を建立し、清水寺と名付けた。
410枚の桧板が張られた床面積は190m²、
崖下の礎石からは13mの高さ(4階建てビルに相当)。
床下18本の柱で舞台を支える。
樹齢400年以上の欅(Zelkova)を使い、格子状に組まれた「懸造り」という伝統工法を採用。
釘を一本も使用していない。
現在の舞台は1633年に再建されたもの。 - 西門
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1633年再建。
極楽浄土に往生する入り口の門。 - 随求堂
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1735年建立。
衆生の願いを叶える大功徳をもつ大随求菩薩(だいずいぐぼさつ)を本尊(秘仏)とする。 - 経堂
- 大黒天
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大黒天はもともとインド伝来の仏教の神様。
古代インドでは「黒」に「偉大」とか「魔を払う」を言う意味があった。 - 弁慶の錫杖と鉄下駄
- 鍛冶屋が仕事中に鉄の破片が目に入り、本来なら失明するところを観音様のご利益で助かり、そのお礼に寄進したもの。
- 音羽の瀧
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向かって左から
「学問」「恋愛」「長寿」
仏教の教え、欲望深い人は欲しがっている物を全て失う恐れがある。
Enseignement bouddhiste, on ne peut choisir qu’un canal, celui qui veut trop, risque de tout perdre. - 三重塔
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847年に創建。
日本で一番大きい三重塔(29.7m)。
現在の塔は1632年に再建されたもの。
一重内陣の中央に大日如来坐像を安置。
南東の瓦(tuile)だけ龍の瓦。- 北西の愛宕山に「火伏の神」が祀られているのに対し、反対の南東に水の神である龍神を置いた説。
-
龍は水神として雨や水を司る神。
音羽の滝は神聖な水として崇められており、三重塔からちょうど南東の方角に位置する説。 - 清水寺は幾度となく火災に見舞われた為、水神である龍を置いた説。
- 仏教の三宝
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→仏(Bouddha)
→法(la loi universelle qui régit le monde)
→僧(la communauté des bouddhistes) - 今年の漢字(Le caractère de l’année)
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毎年12月にその年1年を代表する漢字を日本漢字能力検定協会(Association des examens d’aptitude en sinogrammes japonais)が決め、清水寺で発表される。
1995年から毎年発表されている。 - 2011年「絆」...東日本大震災による絆。
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2015年「安」...安倍政権下、安保法案の採否を巡り国論が二分。
イスラム過激派組織による邦人人質事件、パリ同時多発テロなど、世界中で人々の安全を脅かす。 - 2016年「金」...リオ五輪から東京五輪へ。
- 2017年「北」...北朝鮮ミサイル。
- 2018年「災」...豪雪、豪雨、大阪府北部地震、北海道胆振東部地震、台風21号、酷暑等。
- 2019年「令」...元号が「平成」から「令和」へ。
-
2020年「密」...新型コロナウィルス。
日本学術会議新規会員の一部任命拒否等秘密裏に行われていた不正が多かった。 -
2021年「金」...東京オリンピック、パラリンピック。
新500円硬貨。
コロナ支援金。 - 2022年「」...
- 本堂
-
Nous sommes ici dans le Hondo, le bâtiment où est entreposée(置く) la statue du Bouddha, la statue principale du temple.
Comme je vous l’ai dit à l’entrée, ici il s’agit du bodhisattva Kannon.
Il est parfois représenté avec 1,000 bras pour symboliser son souhait de guider vers l’éveil l’ensemble des êtres vivants (万物を済度する).
Son nom complet (観世音菩薩) signifie le bodhisattva qui est attentif à(être attentif à~/~に気を配る) tous les sons de l’univers.
Le son ici peut faire référence aux demandes émanant du cœur. - 秘仏
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Influencés par le shintoïsme, les japonais pensent que certaines statues de Bouddha sont chargées d’une énergie extrêmement puissante.
Afin de la préserver, cette statue est montrée au public une seule fois tous les 33 ans.
観音様は一切衆生救済の際、三十三身に姿を変化できる。
2000年3月3日~12月3日 - 舞台
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現在の清水の舞台は1633年、徳川家光の寄進により再建されたもの。
江戸時代には観音信仰が大流行していた為、清水寺の本尊である千手観音菩薩を拝みに多くの参拝客が押し寄せた。
その為、舞台を増築し、庶民が安全に参拝できるようにした。
元々崖の上に本堂が建てられていた為、増築すると崖から迫り出す形になった。
江戸時代、「舞台から飛び降りて助かれば願いが叶う」という行き過ぎた信仰があり、実際に230人以上が飛び降り、内35人が亡くなった。
また、「清水の舞台から飛び降りる」とは、「思い切って大きな決断をする」の例えとしても使われる。 - 地主神社
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創建は弥生時代(前4世紀~後3世紀頃)と言われており、実際、境内の「恋占いの石」は縄文時代(前14,000年~前10世紀)のものであることが判明している。
大国主(おおくにぬしのかみ)を主祭神とする地主神社は縁結びのご利益が有名。 - 因幡の白兎
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隠岐の島から対岸に渡ろうとする兎が、ワニに「私たち兎と、ワニさん達とでは、どちらの方が多いか数えてみよう。」と提案。
兎はワニに仲間を集めて並ぶように指示。
ワニは島から対岸まで並び、兎はワニを数える振りをしながらワニの背中を対岸まで渡る。
もう渡り終えるところで、兎が思わずワニを騙して橋替わりに使ったことを口走ってしまう。
するとワニ達は怒り、兎の皮を剥いでしまう。
そこへ大国主が現れ、体を川の真水で洗い、ガマの穂(épi de massette)で覆えば元通りになると教える。
兎はすっかり元通りになり、お礼として大国主へ八上姫(ヤガミヒメ)を紹介し、二人は結ばれる。
この説話から、良縁の神となる。 - 恋占いの石(La pierre de l’amour)
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Il y a deux rochers ‘pierres d’amour’ espacées d’une dizaine de mètres.
Il est dit que celui qui est capable de marcher les yeux fermés et sans dévier d’une pierre à l’autre pourra trouver l’amour de sa vie.
S’il réussi en demandant de l’aide, cela veut dire qu’il aura besoin d’un intermédiaire.
Le premier jour de chaque mois, on y célèbre une cérémonie pour le bon amour. - 阿弖流為・母禮の碑
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801年、征夷大将軍坂上田村麻呂による蝦夷討伐で相対した蝦夷の族長、アテルイとモレは、翌802年に田村麻呂が陸奥国に胆沢城を築くと、降伏した。
田村麻呂は京へ二人を連れて帰り、朝廷に二人の助命を願ったが、後に処刑される。
田村麻呂は二人の死を知り、嘆き悲しむ。
平安建都1,200年を記念し、1994年に建立。 - 阿弖流為
Atérui -
8世紀から9世紀にかけて現在の岩手県丹沢地方に実在した人物。
広大な平地に豊かな水源をたたえ、日本には存在しないと思われていた金山が発見された。
黄金は権力の象徴とされており、また仏像を金箔で塗るために莫大な黄金が必要だったため、朝廷は領土拡張として侵攻を行う。
そこで立ち向かったのが、蝦夷軍の首長である阿弖流為だった。
蝦夷軍は789年の巣伏(subushi)の戦いで勝利を収めた。
中央と戦って勝利したのは日本史上後にも先にも阿弖流為だけだった。
そこで朝廷は坂上田村麻呂を征夷大将軍に任命し、阿弖流為征伐へ向かわせた。
田村麻呂は阿弖流為との戦いに勝利するが、武力行使だけでなく、水田開発や養蚕の技術などにも注力したため、阿弖流為との間に信頼関係が生まれ、阿弖流為と副将の母禮(Moré)は田村麻呂に生命の保証をされて、投降する。
しかし、京で朝廷は田村麻呂の提案を却下し、二人を処刑する。
田村麻呂は780年に鹿を捕らえようとしてして入り込んだ音羽山で修行中の賢心と出会い、清水寺を建立し、朝廷軍・蝦夷軍の分け隔てなく戦死した者達を供養した。
境内のアテルイ・モレの碑は、1994年に平安建都1,200年の節目に、有志によって建立。
- 産寧坂、二寧坂
- 坂の上にある清水寺の子安観音へ「お産が寧か(やすらか)でありますように」と祈願する為に登る坂説。
- 清水寺に参拝した人がこの坂道を通る際に念願を強くし、願いが叶った後で観音様への御礼に再度お参りする時に通ることから「再念坂」と呼ぶようになった説。
-
三年坂で転ぶと、三年以内に死ぬ。
Si l'on tombe ici, on mort dans les tois ans.
また寿命が三年縮まるとされ、京都の人はお守りとして身体から飛び出そうとしている魂を吸い取ってくれる瓢箪を携帯した。
産寧坂の下に二寧坂、その下に一念坂と続く。
- 法観寺(八坂の塔)
- 592年、聖徳太子が如意輪観音の夢告によって建立された臨済宗建仁寺派の寺院。
- 祇園
-
「祇園」の名称は「祇園精舎」に由来し、「祇園精舎」とは正式名称を「祇樹給孤独園精舎(ぎじゅぎっこどくおんしょうじゃ)」と言い、古代インド王国コーサラ国の首都シュラーヴァスティーにあった精舎。
釈迦が説法を行った場所であり、天竺五精舎(釈迦在世に存在した5つの寺院)の1つである。
コーサラ国シュラーヴァスティーにスダッタという富豪がいた。
身寄りの無い者を哀れんで食事を給していた為「給孤独長者」と呼ばれていた。
ある日、スダッタは釈迦の説法を聞いてこれに帰依し、彼の説法のために寺院(精舎)を寄付しようと思い立った。
以前は雨季でも外を歩き回り、布教や托鉢を行っていたため、虫や植物などを多く踏みつけて殺生してしまう恐れがあった。
そして見つかった土地がジェータ(祇陀)太子が所有する園林だった。
その土地を望むスダッタに対してジェータは
「必要な土地の表面を金貨で埋めれば譲ってやろう」
と言ったため、スダッタは本当に金貨を用意してきた。
ジェータ太子は土地を譲り、さらに自らも樹木を寄付して寺院建設を援助した。
そのため、この僧園はジェータ(祇陀)太子とスダッタ(給孤独長者)両名の名を冠して「祇樹給孤独園」と呼ばれ、そこに建てられた精舎を略して祇園精舎と称した。
- 八坂神社
- 656年 高句麗の使節による建立説。
- 876年 僧円如が寺院を建立し、ほどなく祇園神が垂迹した説。
- 829年 公卿の紀百継(きのももつぐ)が山城国愛宕郡八坂郷丘一処を賜り、建立した説。
-
877年に疫病が流行したので占ったところ、東南の神の祟りとされた。
そのため各社に祈り奉幣が行われたが、一向に治まらなかった。
さらに占ったところ、東山の小堂の祟りとわかり勅使を派遣し祈ったところ疫病の流行が止んだ。
これが祇園社の発展の契機となり、わずか2年後の879年には陽成天皇より堀川の地十二町が神領地として寄進され、また同地の材木商360人は神人に任命され、経済基盤が早くも確立した。
また、藤原氏の崇敬も厚く、道長もたびたび参詣した。
藤原氏全盛時代の中心人物の崇敬は、八坂神社の地位が次第に高まることに結び付いた。
一方武家の崇敬も厚く、平清盛の田楽奉納、源頼朝の狛犬奉納、また足利将軍家も社領の寄進や修造を行うとともに社務執行は将軍家代々の祈祷もつとめた。
豊臣秀吉は母大政所の病気平癒を祈願し、焼失していた大塔を再建するとともに、一万石を寄進し戦国期に荒廃した当社の再興が進んだ。
江戸時代には徳川家康も当社を厚く信仰し、家康は社領を寄進、家綱は現存する社殿を造営、数多くの神宝類も寄進した。 - 祇園祭
7/1~7/31 -
日本三大祭の一つ。
863年に疫病流行...Il y avait une épidémie.
864年に富士山噴火
869年に陸奥大地震(貞観地震)
朝廷は牛頭天王を祀り、疫神や死者の怨霊などを沈め、無病息災を祈願。
これが祇園祭の起源。 - ちまき
- 厄除け、八坂神社の祭神素戔嗚尊が旅の途中で蘇民将来にもてなされ、そのお礼として「子孫に疫病を免れさせる」と約束し、その印として「茅の輪」を付けさせた。
- 牛頭天王
-
日本における神仏習合の神。
釈迦の生誕地に因む祇園精舎の守護神。
薬師如来の垂迹であるとともにスサノオの本地ともされた。
- 舞妓
-
15歳前後で置屋の女将との三者面接(entretien)を行う。
学歴(carrière)や資格(qualification)は必要無いが、女将(patronne)は志望者(candidate)の忍耐、親子関係などを見て合否の判断を下す。
無事に女将からの合格を得たら、「仕込み」として芸妓のお世話係となる。
髪の短い子は伸ばしはじめ、長い子は後ろでお団子にし、服装は動きやすい恰好。
この「仕込み」期間に踊りの稽古、京言葉、花街のしきたり、行儀作法などの舞妓として必要な基礎を学ぶ。
この「仕込み」期間を半年から1年間修行する。
舞妓になる前に必ず一人の芸妓と姉妹杯を交わす。
姉さんは実の妹のように面倒を見て、妹は姉に尽くす。Maîtresse et disciple
姉妹杯を交わし、舞妓「見習い」となる。
見習い期間中の約1ヶ月間は舞妓の特徴である帯のだらりを半分の半だらりでお茶屋に入る。
置屋に入って1年弱、つまり仕込み開始から1年弱で舞の試験が行われ、合格すると見習い期間を経て晴れて舞妓としてデビューできる。
これを「見世出し」と言い、3日間黒紋付きを着て芸妓の姉さんに連れられてお座敷をまわる。
舞妓になってからも日中は稽古、先輩や芸妓、ひいきのお茶屋への挨拶回り。
夜は御座敷の繰り返しで、置屋でも家事(ménage)手伝い、先輩の身の回りの世話、後輩の面倒見など、多忙を極める。
置屋に入ると、休みは月2日。
その他、「をどり公演」の後5~6日、夏に3~4日、年末年始に10日ほど。
舞妓はあくまでも芸妓の見習いという身分の為、給料は発生しない。
ただし、日常の生活費や衣装代など、すべて置屋が面倒を見て、置屋から月に1~2万円程度のお小遣い(argent de poche)ももらえる。
経験を重ね、御座敷に出れば客からチップを貰うこともある。
舞妓には15歳~20歳という年齢制限がある為、20歳以上で芸妓を志す場合、舞妓を経ずに芸妓として活動を開始していく。
芸妓に年齢制限は無く、80歳でも現役で活動している方もいるが、結婚すると引退をするのが一般的。
舞妓は20歳になると、芸妓として活動する為、置屋を出て独り立ちする。
自身で生計を立てる必要があり、お茶屋や料理屋の挨拶回りをマメに行い、馴染みを作る努力をしなければならない。
一般的にお座敷(お茶屋)は一見客お断りでメニューも価格表も無い。
舞妓や芸妓の白塗りメイクは、昔、限られた蝋燭の灯の中でも美しく映えるように肌を白くした。
300年前、神社やお寺にお参りに来た人にお茶を振る舞った女性が起源。
次第にお茶からお酒に変わり、歌や舞を披露するようになる。 - 芸妓(Geigi)...芸者(Geisya)や芸子(Geiko)の明治期以後の呼称。
- 芸妓(Geiko)...京都における芸妓(Geigi)の呼称。20歳以上。
- 舞妓(Maiko)...京都における芸妓(Geiko)見習いの呼称。16歳~20歳。また、舞妓になる前に更に仕込みの期間が1年ほどある。
- 芸者(Geisya)...関東地方における芸妓(Geigi)の呼称。
- 半玉(Hangyoku)...関東地方における芸妓(Geigi)見習いの呼称。
- 雛妓(Osyak/Suugi)...同上。
- 花魁(Oiran)...遊女で位の高い呼称。
- 立方(たちかた)...舞踊を主とする者。
- 地方(じかた)...長唄や清元などの唄、語りや三味線や鳴物の演奏を受け持つ者。
- 京都「五花街」
- 上七軒、祇園甲部、祇園東、先斗町、宮川町
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置屋に入って5~6年後、つまり20歳前後で舞妓期間を修了すると、芸妓の道へ進むか否かを改めて判断し、芸妓になる場合にはさらに独立するまで置屋のサポートを受けながら芸を磨く。
現在は五花街に所属する芸妓、舞妓の人数は合わせても300人程度で最盛期の1,000人以上から減少の一途をたどっている。
- 三十三間堂
-
元々、後白河上皇の離宮で法住寺殿の一画に建てられた仏堂。
上皇が平清盛に建立の資材協力を命じて1165年に完成。
創建当時は朱塗りの外装で、内装も極彩色で飾られ、五重塔も建つ寺院だったが1249年の火災で焼失し、1266年に本堂のみ再建。
江戸時代には各藩の弓術家(tir à l'arc)により、本堂西軒下(長さ約12m)で矢を射る「通し矢」の舞台となった。
縁の北端に的を置き、縁の南端から軒天井に当たらないように矢を射ぬく。
現在は1月に新成人が振袖袴姿で本堂西側の射程60mの特設射場で矢を射る大会が行われる。
三十三間堂の名称は、柱間が三十三あることに由来する。
また「33」は観音に縁のある数字で、「法華経」等に観音菩薩が33種類の姿に変じて(se métamorphoser)衆生を救うと説かれることにも起因する。
俗に「三十三間堂の仏の数は三万三千三十三体」というのは、本尊と脇仏の一千一体がそれぞれ33に化身するから。 - 国宝
千手観音立像 -
正式名称「十一面千手千眼観世音」
檜材(cyprès)の寄木造で、頭上の11の顔と40種の手を持つ。
中尊を中心に左右に各500体ずつ、計1,001体がご本尊。 - 国宝
雷神と風神 - 堂内両端の高い雲座に乗った風神と雷神像は古代人の自然や天候に対する恐れや感謝の心が、空想的な二神を創造し、風雨を司り「五穀豊穣」をもたらす神々として信仰された。
- 国宝
観音二十八部衆像 -
観音像の前列と中尊の四方に位置する変化に富んだ28体の仏像は、千手観音とその信者を守る神々でインド起源のものが多い。
檜材(cyprès)の寄木造で、漆を塗って彩色仕上げをした。
眼にはより写実性を高めるため、水晶を嵌め込む玉眼を採用。
宗派 | 天台宗 |
---|---|
寺格 | 妙法院飛地境内 |
本尊 | 千手観音(国宝) |
創建 | 12世紀(1165年) |
開基 | 後白河天皇 |
- 東福寺
-
1239年に九条道家(くじょう みちいえ)によって建立された臨済宗の寺院。
※臨済宗:人間は生まれながらにして純粋(pureté)な性質を備えており、坐禅(méditation)によって悟る。
L’humanité est pure de son vivant, et on peut atteindre l’éveil pour la méditation.
奈良の東大寺と興福寺から1字ずつ取って「東福寺」と名付けた。
※京都最大の伽藍
※東大寺=大仏で有名な華厳宗の大本山/興福寺=阿修羅像で有名な法相宗の大本山
通天橋を渡ると先に常楽庵開山堂があり、九条道家が招いた迎えた僧・円爾(えんに)が祀られている。 - 東福寺(パンフレット記載)
-
「摂政関白九條藤原家の造営による京都最大の大伽藍」
京都五山東福寺
創建は古く鎌倉時代。
ときの摂政関白藤原(九條)道家が、南都東大寺と興福寺から「東」と「福」の二文字をとり、九條家の菩提寺として造営。
仏殿には高さ15mの大仏立像を安置。
京の「新大仏時」として、1236年より実に19年をかけて、都最大の伽藍を完成させた。
開山には聖一(しょういち)国師を仰ぎ、当初は天台、真言、禅の三宗兼学として壮大な堂塔伽藍を配置。
鎌倉末期の相次ぐ火災により大部分を焼失したが、直ちに復興に着手。1347年、前関白一條経通により仏殿が再建され、京都五山の一つにふさわしい禅宗寺院として、偉容を取り戻した。
その後は足利、豊臣、徳川家によって保護修理が加えられ、奇跡的に都の兵火を逃れて中世以来の堂塔伽藍を継承。
惜しくも明治14年、方丈、仏殿、法堂などを焼失、再建されたが、今なお中世の禅宗建築を随所に遺している。
境内にある通天橋は紅葉名所として有名。
昭和の作庭家重森三玲による方丈庭園も知られるところ。 - 「日本で最初に国師と称された禅僧」
聖一国師を開山として -
聖一国師こと円爾弁円(えんにべんねん)(1202~1280)は、天皇より初めて国師号を贈られた禅僧。
駿府国(現静岡市栃沢)に生まれ、久能山久能字(現久能山東照宮)に登って堯弁(ぎょうべん)法師の室に入った。
その後、三井園城寺で天台学徒となり、栄西(ようさい)(建仁寺開山)の高弟、行勇栄朝を師とした。
33歳で宋に渡り、杭州径山万寿字(きんざんまんじゅじ)の佛鑑禅師の法を嗣ぎ、6年を経て帰朝。
筑紫に崇福寺承天寺を建て法を説き、名声が国内に及ぶや摂政関白九條道家に都にむかえられ東福寺を開山。
やがて歴代天皇や幕府の帰依を受け、京の岡崎尊勝寺、大阪四天王寺、奈良東大寺などの再建復興にも尽力。
延暦寺の天台座主慈源や東大寺の円照らを教導して、その学徳は国中に称えられた。
国師は中国より多くの典籍を持ち帰り、文教の興隆に寄与。
また水力を用いて製粉する器械の構造図を伝えて製麺を興すとともに、杭州径山の茶の種子を郷里に伝えた静岡茶の茶祖でもある。 - 東福寺方丈八相の庭
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方丈とは禅宗寺院における僧侶の住居であり、後には相見(応接)の間の役割が強くなった。
東福寺方丈は明治14年の火災により仏殿、法堂、庫裏とともに焼失したが明治23年(1890年)に再建され、災禍を免れた三門、東司、禅堂、浴室などの中世禅宗建築とともに、現代木造建築の精粋を遺憾なく発揮している。
内部は三室二列の六室とし、南面に広縁を設ける。
中央の間を室中と呼び、正面は双折(もろおれ)桟唐戸とする。
広大な方丈には東西南北に四庭が配され、「八相成道(はっそうじょうどう)」に因んで「八相の庭」と称する。禅宗の方丈には、古くから多くの名園が残されてきたが、方丈の四周に庭園を巡らせたものは東福寺の方丈のみである。
作庭家の重森三玲(しげもりみれい)(1896-1975)によって昭和14年(1939年)に完成されたもので、当寺の創建年代にふさわしい鎌倉時代庭園の質実剛健な風格を基調に、現代芸術の抽象的構成を取り入れた近代禅宗庭園の白眉として広く世界各国に紹介されている。 - 南庭
-
「八相の庭」とは、四庭に配された「蓬莱」「方丈」「瀛洲(えいじゅう)」「壷梁(こりょう)」「八海」「五山」「井田市松(せいでんいちまつ)」「北斗七星」の8つを「八相成道(釈迦の生涯の8つの重要な出来事)に因んで命名された。
古来中国大陸の蓬莱神仙思想では、東の大海の彼方に仙人が住む「蓬莱」「方丈」「瀛洲(えいじゅう)」「壷梁(こりょう)」と呼ばれる四仙島があり、島には仙薬財宝があると信じられた。
広さ210坪の枯山水庭園である南庭は、この四仙島を18尺の長石を基本に巨石を剛健に配し、渦巻く砂紋によって「八海」を表す。
西方には「五山」になぞらえた築山を置き、その苔地と砂紋とを区切る斜線の表現も効果的である。
南正門に設けられた向唐破風の表門は昭憲皇太后の寄進と伝わる。
恩賜門とも呼ばれ、小型ながら明治期唐門の代表作である。 - 西庭
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さつきの刈り込みと砂地とを葛石で方形に区切り、大きく市松模様に図案化する。
井の字に等分した古代中国の田制「井田」に因み、「井田市松」と呼ばれる。
北庭へ続く途中には「通天台」と呼ばれる舞台が設けられ、眼下に渓谷「洗玉澗(せんぎょくかん)」を一望できる。 - 北庭
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ウマスギゴケの緑との対比も色鮮やかな市松模様の敷石は、もと恩賜門に使われていたものである。
サツキの丸刈りとの調和の妙も誠に印象深く、彫刻家イサム・ノグチはこの庭を「モンドリアン風の新しい角度の庭」と評した。
秋には、背景の紅葉の赤色と聖一国師が宋より持来したといわれる唐楓「通天紅葉」の黄金色とが織りなす色彩感あふれる空間となる。 - 東庭
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雲文様地割に円柱の石で北斗七星を構成し、北斗の庭と呼ばれる。
北斗七星に見立てた石は、もの東司(重要文化財、旧便所)の柱石の余石を利用したもの。
後方には天の川を表した生垣が配され、夜空が足元に広がるかのような小宇宙を造りだしている。 - 東福寺三名橋
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広大な境内に北谷、中谷、南谷の3つの渓谷を巧みに取り入れている東福寺。
通天橋からの眺めは中谷にあたり、ここにかかる3つの歩廊橋は上流から偃月橋(えんげつきょう)、通天橋、臥雲橋。これを「東福寺三名橋」と呼ぶ。 - 750年鳴り続く、深夜の送り鐘
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毎夜11時45分ごろから18回、開山堂、常楽庵鐘楼の鐘が鳴る。
この深夜の鐘は、開山聖一国師以来の習慣。
国師は同じ京都五山建仁寺の住持でもあったため、東福寺でのお勤めが済めば建仁寺へ移動。
このとき東福寺では「送り鐘」でお送りし、建仁寺では「迎え鐘」でお迎え。
東福寺に750年欠かさず続く習慣。 - 通天橋(Tsuten-kyo)
「京都を代表する紅葉名所」 -
方丈と開山堂を結んで架かる。
ここから眺める渓谷洗玉澗(せんぎょくかん)の紅葉と新緑は絶景。
黄金色に染まる珍しい三ツ葉楓は聖一国師が宋から伝えた唐楓といわれている - 開山堂(常楽庵)
「通天橋からつながる開山塔院」【重要文化財】 -
1280年入定の正一国師を祀る。
楼閣そびえる伝衣閣(でんねかく)にある「三国伝来の布袋」像は伏見人形のルーツ。
普門院前の庭園は江戸中期の名園。 - 愛染堂
「八角形の優美な円堂」【重要文化財】 -
丹塗りの杮(こけら)葺き八角円堂。
南北朝時代の建築。
昭和12年、万寿寺より移された。
愛染明王を祀る。 - 月下門(月華門)
「亀山天皇御所の遺構」【重要文化財】 -
1268年の常楽庵建立時、亀山天皇が下賜されたと伝わる。
今は普門院の総門。
四脚門で檜皮葺き、細部に鎌倉時代の特色が美しい。 - 三門
「現存最古最大、楼上内部に極彩画」【国宝】 -
大仏(天竺)様を思わせる、室町初期の再建。
扁額「妙雲閣」は足利義持筆。
楼上内部には諸仏が並び、天井や柱には明兆と弟子による極彩画が描かれている。 - 本堂(仏殿兼法堂)
「猫のいる大涅槃図で知られる」 -
昭和9年築の重層入母屋造の大建築。
天井の蒼龍図は堂本印象作。
春の涅槃会には明兆の大涅槃図が公開される。 - 禅堂
「中世より遺る唯一の僧堂建築」【重要文化財】 -
1347年再建。
わが国最古最大、中世から遺る唯一の坐禅道場。
鎌倉風の華頭窓が美しい。
扁額「選佛場」は宋の佛鑑禅師(聖一国師の師)筆。 - 東司(とうす)
「便所も禅の修行のうち」【重要文化財】 -
通称百雪隠すなわち便所。
禅僧は用便も修行であり、東司へ行くにも厳しい作法が定められていた。
わが国最古、室町前期の遺構。 - 殿鐘楼
「平安初期の西寺の遺物」 -
禅堂の北に建つ鐘楼。
漆喰壁に覆われた室町後期の建物。
銅鐘(重文)は平安初期を下らない鋳造とされ、もと西寺の遺物と伝わる(現在は収蔵庫に収納)。 - 六波羅門
「寺内最古の建築」【重要文化財】 -
六波羅探題の遺構を移築したと伝えられる。
月下門とともに寺内で最も古い建築物。 - 浴室
「入浴にも厳格な作法」【重要文化財】 -
国内最大、東大寺の湯屋に次いで古い浴室(1459年の瓦銘)。
蒸し風呂形式。 - 十三重石塔
「九條道家が創立祈願」【重要文化財】 -
1343年、九條道家が当寺創立を祈願して造立。
全体の均整も良くとれており初重の梵字が美しい。 - 偃月橋(えんげつきょう)
「桃山時代の木造橋廊」【重要文化財】 -
三ノ橋川の上流に架かる木造橋廊。
1603年の建築で、単層切妻造の屋根は浅瓦葺き。
通天橋、臥雲橋とともに東福寺三名橋と呼ばれている。 - 方丈と庫裡(ほうじょうとくり)
「明治時代に再建」 -
方丈は明治23年再建。
唐門、庫裡は明治天皇皇后であった昭憲皇太后の恩賜建築。 - 国指定名勝東福寺本坊庭園(方丈庭園)
「重森三玲の代表作」
「八相の庭」と命名され、近代庭園の傑作とされる。
方丈の東西南北に四庭をもつ。
伏見区
- 伏見稲荷大社
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全国に約30,000社あるといわれている稲荷神社の総本社。
裕福な豪族「秦氏(はたし)」の棟梁であった秦伊呂巨(具)(はたのいろぐ)は、ある日お餅をこねて矢を射る的を作った。
矢を射かけたところ、お餅は白い鳥に姿を変え、かなたの山の峰に飛び去った。
白い鳥の舞い降りた峰には、不思議なことに稲がたわわに実った。
Le riz est donné.
利呂巨(具)はこの出来事を神様の力と信じ、そこに社を建てた。
これがお稲荷さんの起こりで、711年の事と伝えられている。
827年、淳和天皇は体調が良くならないので、占いで原因を突き止めようとした。
すると、東寺の五重塔を建てた時にお稲荷さんの山の木を切って「祟り(la malédiction)」を受けていることがわかった。
神様の怒りを沈めるため、天皇はお稲荷さんに「従五位下」の位を奉り、併せて病気平癒を祈願した。
稲荷山は標高233mあり、片道約1時間で登頂できる。 - 境内の鳥居
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江戸時代に「願い事が通る(あるいは通った)」御礼の意味から鳥居を奉納する習慣が起こり、現在の約1万基にまで増えた。
現在でも9:00~16:00まで、社務所にて受け付けている。
5号サイズで1基175,000円、10号は最低1,302,000円から受付可能。 - おもかる石
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2つある灯籠の空いている方で占う。
まず、自分の願い事を心の中で念じて、おもかる石を持ちあげる。
持ちあげた際に、自分が想像していたよりも「軽い」と感じたら願いが叶う。
逆に「重い」と感じた場合は、願いが叶うのが難しいという事。
宇治市
宇治市 | |
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面積 | 67㎢ |
人口 | 177,000人 |
人口密度 | 2,625人/㎢ |
宇治市は、人口約180,000人で、京都府内において京都市に次いで第2位の人口を擁する都市。
日本三大茶のひとつでもある宇治茶の生産地として有名(他、静岡茶、狭山茶)。
生産量の少ない狭山茶を除いて、日本二大茶とする説もある。
公立の小中学校には校内の蛇口から茶がでる「茶飲み場」がある。
茶葉生産量 | ||
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順位 | 産地 | 生産量 |
1位 | 静岡 | 30,800t |
2位 | 鹿児島 | 26,600t |
3位 | 三重 | 6,130t |
4位 | 宮崎 | 3,770t |
5位 | 京都 | 3,160t |
抹茶生産量 | ||
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順位 | 産地 | 生産量 |
1位 | 京都 | 818t |
2位 | 愛知 | 539t |
3位 | 静岡 | 269t |
鎌倉時代初期に僧栄西が1191年に留学先の南宋から茶種を持って帰り、それを僧明恵に送った。
明恵は京都北部の栂尾と宇治に茶を植え、やがて産地(region productrice)の異なる茶を飲み比べる文化が発展した。
戦国時代、豊臣秀吉によって抜擢された千利休は「天下一の茶湯者」として宇治茶の発展にも貢献した。
秀吉は織田信長の代から茶頭として起用していた森氏を尊重しながらも、新進気鋭の茶師・上林氏を積極的に登用し、1584年には、宇治郷以外の者が宇治茶と称して茶を販売することを禁じた。
このとき既に上林氏の製茶場は森氏のそれを3倍も上回るほど、上林氏の台頭が伺えた。
千利休亡き後、「茶湯名人」の称号を継いだのは、古田織部(おりべ)なる人物で、その弟子(disciple)・小堀政一(こぼりまさかず)が、宇治茶師に好んで使われた「朝日焼」を興した。
1834年に日本茶における最高級品である玉露製法が宇治で創製された。
太平洋戦争中に茶業組合が解散させられ、贅沢品である玉露などの生産量は落ち込むが、戦後回復し、現在もブランド茶のひとつとして全国に販売されている。
昔からの手摘みも宇治茶の特徴のひとつ。
宇治駅前には茶壷型のポストが据えられている。
碾茶(粉末にする前の抹茶)保管用。
現在は、カルチャーセンターなどで茶道体験ができるが、本来は家招待されて参加するもの。
- 和敬清寂
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主人と賓客がお互いの心を和らげて謹み敬い、茶室の備品や茶会の雰囲気を清浄にすること。
和=調和harmonie
敬=尊敬respect
清=清浄purification
寂=静寂tranquillité - 一期一会
- Comme toutes les rencontres sont une seule fois dans la vie, il faut chérir chaque rencontre.
- 源氏物語
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作者・紫式部の小説で実体験を織り交ぜたフィクションとノンフィクションが交錯する物語。
ある天皇が身分の低い桐壺との間に子供を授かる。
その子供が光源氏。
しかし、桐壺は身分が低い為、その子供は天皇になることが出来ない。
その上桐壺は源氏が3歳の時に死んでしまう。
母を早くに亡くし、自分は天皇になれない。
複雑な気持ちで10歳を迎えた時、新しい天皇の奥さん、つまり義理の母(藤壺)に恋をする。
その後、藤壺の姪(nièce)である紫の上に恋をし、結婚。
しかし同時に藤壺を妊娠させてしまう。
Il l’a rendu enceinte.
藤壺は真実を隠し、天皇の子供として自分の子を天皇にする。
光源氏は自身を差し置いて息子が天皇になれたことで塞ぐも、後に真実を公表し、源氏は上皇の座について権力を掌握する。
しかし、奥さんに浮気される。
sa femme a une aventure avec un autre homme.
これまでに数多くの女性と関係を持ってきた光源氏は幸せについて本気で考え、姿を消す。
- 平等院
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古都京都の文化財として1994年に世界遺産登録。
Il a été classé au patrimoine mondial de l’humanité par l’UNESCO en 1994.
10円玉、一万円札(鳳凰)、60円切手(釣鐘)を提示すると良い。
藤原道長は娘を天皇に嫁がせることで、朝廷に取り入り、天皇家と深い関係を築いた。
宇治は元々貴族の別荘地であり、その別荘のひとつを、998年に摂政(régent)藤原道長が譲り受け、自身の別荘「宇治殿」とした。
1027年の道長没後、息子で関白の藤原頼通が1052年にこれを寺院に改めた。
この1052年は末法初年に当たるとされ、末法思想が貴族や僧侶の心をとらえ、極楽往生を願う浄土信仰が社会に広まった。
翌1053年に西方極楽浄土をこの世に出現させたような阿弥陀堂が建立され、江戸時代に入ってから「鳳凰堂」と名づけられた。
本尊は阿弥陀如来で、「鳳凰堂」への改名は、屋根上の鳳凰や、お堂自体が羽を広げた鳳凰に様に見えることから。
17世紀以来、天台宗と浄土宗を兼ねた秀派だったが、現在は特定の宗派に属さない単立の仏教寺院となっている。みんなを平等に救う。 - 三時
- 仏教における時代区分
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正法...釈迦入滅後500年間。
教えがあり、実行する人がいて、悟る人もいる。 - 像法...正法後から1000年間。
教えがあり、実行する人はいるが、悟る人はいない。 -
末法...像法後から1000年間。
教えだけがあり、実行する人も悟る人もいない。 - 美術館内
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天下三名鐘のひとつ。
鳳凰は本物で、外のものがレプリカ。
地蔵菩薩
螺鈿
九品来迎図 - 源頼政が切腹自刃した場所 宇治川の戦い 元々源融の別荘 借景 阿字池と阿字観 菩薩と仏陀の違い 鐘楼、108煩悩 観音堂 ・国宝鳳凰堂扉絵(九品来迎図)「観無量寿経」 「観無量寿経」第14,15,16観には、人の生前の性質や行いに応じた9通りの来迎が説かれている。世俗の者について記されているのは、中品下生から下品にかけてで、下品は悪行を重ねた者であるが、善友に導かれ、「南無阿弥陀仏」と唱えることで極楽往生できるとする。来迎にもあらわれる仏や台座は品により異なる。鳳凰堂の壁扉画に描かれるものは、日本の風景四季図ともいえ、それらの忠実な再現ではない。 種別 その人の性質・行い 来迎の仏等 極楽へ運ぶ台座 上品 上生 忠実な心・深い信心・回向発願の心を備えた者。また磁心を持ち、戒律を守り、大乗経典を読誦(どくじゅ)し、六念を修行する者。 阿弥陀如来、観世音菩薩、勢至菩薩、無数の化仏、百千の比丘(修行僧)、声聞の大衆、無数の諸天、七宝宮殿 金剛(ダイヤモンド)の台 中生 必ずしも大乗経典を読誦しないがその意義を理解し、心驚動せず、因果の理を信じ、大乗をそしらぬ者。 阿弥陀如来、観世音菩薩、勢至菩薩、無量大衆眷族、千の化仏 紫色をおびた金色の台 下生 因果の道理を信じ、大乗をそしらず、無上道心を発する者。 阿弥陀如来、観世音菩薩、勢至菩薩、諸眷族、五百の化仏 黄金の蓮華 中品 上生 在家信者の守るべき五戒・八戒を守り、諸戒を修行し、五逆罪を犯さない者。 阿弥陀如来、諸比丘眷族 蓮華台 中生 一日一夜八戒、或いは沙弥戒、或いは具足戒を保つ者。 阿弥陀如来、諸眷族 七宝の蓮華 下生 立派な若者・娘で、父母に孝養し、世に仁慈を行う者。 (記載無し) (記載無し) 下品 上生 大乗経典を誹謗しないが、諸悪行を行い、それを恥じない者。 化仏、化観世音菩薩、化勢至菩薩 宝石の蓮華 中生 五戒・八戒・具足戒を破り、僧物や供物を盗み、私利私欲の為に説法を行い、悪しき行為で自らを飾り立てる者。 (天華上)化仏、化菩薩 (記載無し) 下生 五逆罪・十種の悪行を犯し、諸不善も行う者。 金蓮華(如日輪) (記載無し) 参考 濱田隆『日本の美術 来迎図』至文堂 1989年、『観無量寿経』(『浄土三部経 下』岩波書店 1990年)
- 炭山陶芸
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京焼とは、茶の湯の流行を背景に江戸時代初期頃から東山山麓地域を中心に広がった焼き物。
粟田口焼、八坂焼、音羽焼、御菩薩池(みぞろがいけ)焼、修学院焼、清閑寺焼、御室焼などがり、清水寺への参道である五条坂界隈に窯元があった清水焼もその一つ。
清水焼は現在、東山、山科、宇治の炭山などで生産されている。
また、伝統的工芸品産業の振興に関する法律に基づいて指定された経済産業大臣指定伝統的工芸品及び、京都府伝統と文化のものづくり産業振興条例に基づいて認証された京都府知事指定伝統工芸品(京もの指定工芸品)における名称は「京焼・清水焼」となっており、若宮八幡宮社境内に「清水焼発祥の地」の石碑が建っており、毎年8月8日から8月10日の「陶器祭」では清水焼で装飾された神輿が出る。 - 京焼(La céramique Kyo)の特徴
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一度焼成した後に上絵付けを施す。
Après la cuisson, peindre.
作家(陶工=potier)ごとに個性が出る。
「乾山(けんざん)写し」「仁清(にんせい)写し」など、他の窯のデザインを本歌取りした写しを得意とする。 - 京焼の起源
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京焼は1590年代末には生産が始まっていたと言われている。
この頃の作品は、低温で焼成し、鉛を含む釉薬が使用されており、技法やデザインが多様なことが特徴。
17世紀に入ると茶道の隆盛に伴って茶陶の製造が盛んになった。
京焼の中でも最も歴史が古い粟田口焼は、寛永年間(1624年~1644年)には生産を行っており、八坂焼と清水焼も同時期に生産を開始している。 - 赤色の上絵付
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1650年頃には、赤色系の上絵付を施した御室焼が野々村仁清によって初めて作られた。
調合・焼成の困難な赤色系の絵付を17世紀に成功させてのは、磁気を国内で初めて製作した伊万里焼(有田焼)以外ではこれが唯一であり、登記としては国内初である。
野々村仁清の死後、弟子の尾形乾山は優れた作品を多く残し、また、永樂了全より後の永樂家は、保全・安全などに優れた陶工を排出し、千家に作品を納めて今日に至る。
さらに、京焼として初めて磁気を製作した奥田穎川(えがわ)も京焼における重要人物の一人である。 - 明治時代の京焼
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明治維新後の東京奠都に伴い、京都の人口減少や経済衰退により茶陶の需要が激減し、廃業を余儀なくされた者も多いが、海外市場を開拓した京焼窯も多く、西洋陶器の製作や、工場による大量生産が行われるようになった。
また、陶工の一部は日本陶器(現・株式会社ノリタケカンパニーリミテド)のような企業組織に入っていき、その技術を支えた。 - 戦後の京焼
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1966年頃にはここ炭山で「京焼・清水焼」の製作が始まり、その恵まれた創作環境から多くの窯元が移り住んだ。
1970年頃には30以上の窯元が炭山に集まる中、協同組合炭山陶芸は、1974年に組合を設立し、「陶器の里 炭山」の一翼を担うようになった。 - 用語集
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un émail...釉薬
une marne...泥灰土...粘土と石灰の混合物
une boue...泥
une chaux...石灰
une argile...粘土
un cuisson...焼成
une poterie...陶器
un potier...陶工
une silice...シリカ、二酸化ケイ素
une jarre...大型の壺
une cruche...取手と注ぎ口のついた壺、水差し
un grès...砂岩、砂の混じった陶土
une calebasse...瓢箪、瓢箪型の瓶
un plomb...鉛
un fourneau/un four...窯
une couleur froide...寒色
une couleur chaude...暖色
une copie...写し
un étain...錫
un zinc...亜鉛
un calcium...カルシウム
un minéral...鉱物、無機物
une matière organique...有機物
un tour...ろくろ
peindre...絵を描く
Le feldspath[フェルスパス]...長石