岐阜県
| 岐阜県 | 岐阜市 | |
|---|---|---|
| 面積 | 10,000㎢ | 200㎢ |
| 人口 | 2,000,000人 | 400,000人 |
| 高山市 | 飛騨市 | 大野郡白川村 | |
|---|---|---|---|
| 面積 | 2,000㎢ | 800㎢ | 360㎢ |
| 人口 | 80,000人 | 20,000人 | 1,400人 |
目次
白川郷
- 概要
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1995年「白川郷・五箇山の合掌造り集落」UNESCO世界文化遺産登録。
地名としての白川郷は12世紀半ば、合掌造りは17世紀末完成。
現存100棟。
萩町地区では今でも実生活の場として使用。
白川郷は積雪1m、最大2m
養蚕は18世紀から第二次世界大戦迄続いた。 - 合掌造り
-
合掌…prier les mains jointes
茅(le chaume)葺叉首構造屋根。
屋根の傾斜は雪下ろし作業(déneiger)軽減や多雨地帯の為の水はけ(imperméable)も考慮。
また、勾配を急にすることで、屋根裏に2層や3層の空間を確保でき、光や風を取り入れ、養蚕業(la sériciculture)に都合が良い。
茅葺屋根の葺き替えは、30年に1度行われ、地域住民の労働提供による共同作業によって行われ、その仕組みを「結」と呼ぶ。
茅にはススキやヨシ(le roseau)といったイネ科の植物を使用。
木材の固定に釘を使わず、主にマンサクの枝条(la branche)や藁縄(la paille)を使用。
特にマンサクは「ネソ」と呼ばれ、強度と柔軟性があり、雪の重みや強風による歪みに対応できる為、屋根の主構造の結束に欠かせない素材。
予算は一戸当たり10,000,000~20,000,000円(50,000~100,000€)で最長1ヶ月かかる。
毎年11月上旬、火災に備えて一斉放水訓練実施。
ちなみに、囲炉裏の煙が蚕に与える影響はむしろプラスで、寒さと湿気に弱い蚕を守るだけでなく、茅葺屋根を害虫から防ぎ、屋根裏の温度を快適に保ち、その上通気性も良いので煙が滞留することなく抜けていく。 - 葺き替え費用
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なぜ当時多額の支出が出来たのか。
農業以外の収入源が村にあった。
養蚕業の産物として蚕(le ver à soie)の糞(la crotte)が大量に得られた。
この糞と草(des herbes)、人の尿(une urine)を床下で発酵させて、硝酸カリウム(le nitrate de potassium)を精製した。
これは火薬(la poudre)の原料となり、戦国時代には日本全国へ出荷。
また、山の中で秘密が保たれ、この製法が外部に漏れる事は無かった。
- 和田家
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1573年より続く家柄で、当主は代々「弥右衛門」を名乗った。
家屋自体は江戸時代末期建造で、当時は20人以上が居住。
山間で土地が狭く、次男や三男も分家せず、長男を中心に大家族を形成。
現在も住居として使用。
江戸時代中期から1960年代まで、どの合掌家屋でも養蚕が行われていた。
現在、白川村には1,500人程が居住。
囲炉裏は暖を取ったり料理をしたりする以外に、煙で茅葺の防虫や防臭効果もある。
- 長瀬家
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白川郷最大級の5階建て合掌造り家屋。
長瀬家五代当主民之助が建造し、1890年完成。
11mの一本柱(合掌柱)が、屋根の勾配の上から下までを貫き、大きな屋根を造る。
柱材には樹齢150年以上の天然檜(le cyprès)を用い、その他樹齢300年を越える桂(un arbre à caramel)、栃(le marronnier du Japon)、欅(le zelkova)等が随所に使われている。
3年掛かりの大工事で、総工費は当時の金額で800円、その他米100俵、酒11石8斗を費やした。
総床面積は約600坪(1,983㎡)。
5階は薬草の干し場。
3、4階は養蚕の作業場。
2階は使用人の寝所。
1階は主な生活の場。
260年続く旧家の長瀬家は、初代〜3代目が漢方医。
特に加賀藩の藩医であった3代目善作は前田家に引き立てられ、500年前の作と言われる壮麗な仏壇の他、蔵一棟を譲り受けた。
蔵には貴重な美術品、什器等を多数保存。
4階…山仕事道具、農器具等展示
3階…生活用具等展示
1階…祝祭道具、医療具等展示
- 神田家
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世界遺産となった集落の中でも、114軒と最も多く合掌造りの残る荻町の原型は、中世初頭には既に形成され、1460年内ヶ島氏(un clan)家臣、荻町城主山下氏勝の入郷によって発展。
当合掌造りは江戸後期に石川県の宮大工により10年の歳月をかけて建造された。
それまでの合掌造りの構造を受け継ぎながらも、新しい技術を取り入れ改良し、完成度の高い高い造りと評されている。
合掌造り民家では主に「養蚕」が行われていたが、さらに当家の床下では火薬の原料となる「煙硝づくり」を行い、貴重な現金収入源となっていた。
合掌造りは家族が生活する反面、養蚕業・煙硝づくりといった労働集約業務をこなすには適した形態であり、1935年来村したドイツの建築家ブルーノ・タウトは「合理的・論理的な独特の構造」と合掌造りを高く評価。 - 1階
- 焔硝土
- 火薬の原料である煙硝を生産していた場所。
- 合掌家屋に火薬工場
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江戸時代にこの家の床下で焔硝が作られていた。
材料は、- 田や畑の土
- 山野草
- 蚕の糞
- 人尿
- 床下に穴を掘り、材料を交互に積み重ねて入れる
- 囲炉裏の熱で発酵させる
- 年3回程度混ぜ合わせる
- 4~5年で焔硝土ができ、別の場所で焔硝に精製する
- 中2階
- チョンナバリ(根曲がりの木)
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雪の重みに耐えて成長した1番強い丈夫な部分。
神田家では東西から5組10本を揃え、南北の「牛の木」と言われる梁の上で組んでいる。 - 火見窓
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ここに寝起きをしていた独身男性は、夜中に目を覚ますと、窓を開けて1階の囲炉裏の火の用心をしていた。
灰をかけておいても、茅葺屋根は火に弱いので安全を確認した。 - 2階
- 合理的な駒尻
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合掌造りの屋根勾配は正三角形(60度)にほぼ近い。
屋根を構成する太い斜材「合掌梁」の付け根の先端を駒尻のように細く削り、水平梁へ簡素に差し入れた支点の為、地震や強風には自由な応力を分散するので、家屋は破壊されず、un architecte allemand, Bruno Julius Florian Tautは無駄のない手法だと絶賛した。 - 屋根の縫針いろいろ
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屋根下地(縦材)に太い縄が巻き付いている。
縄は1m程の屋根材をしっかり押さえ、丈夫に固定。
こうした縫い縄は大きな針を使って差し縫いすることから「縫針」と呼ばれる。 - 東側…2008年3月
- 西側…2008年4月
- 御酒造りの話
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国内での酒造り(ドブロク酒)は、江戸時代前までは必要の都度造られ、神社での酒造りも盛んだった。
豊かに安定した江戸時代に入ってからは清酒が醸造され産地化が進み、農村各地にも小規模の酒造業が現れた。
神田家には、幕末から明治期へと酒造業を営んでいた当時の道具が残る。
高山
- 概要
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標高570m。
飛騨の小京都とも呼ばれる、江戸時代からの城下町風景が保全されている町。
関ヶ原の戦い以降、金森氏が支配し、商業活動を重視。
周囲を山で囲まれているので、県庁所在地からのアクセスが悪く、鉄道の開通も1933年と遅く、近代化の波から取り残された。
また、古くから幕府との繋がりが強く、伝統を守るという保守的な意識が高かった。
地酒も輸出すれば価値がなくなってしまう為、高山で造って、高山で飲むことが重要視された。
さるぼぼ
- La phase 1
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奈良時代に遣唐使が中国から伝えた形代が原型。
当時貴族の間で「産屋のお守り」(le porte-bonheur)として正絹(la soie)で作られたものが流行し、その後家にある余り布(le reste de tissus)などで作られたものが民間に広がり、
「安産(l'accouchement facile)」
「子供の成長(la croissance des enfants)」
「良縁(le bon lien/mariage)」
「無病息災(la santé)」
等を願うお守りとされていった。 - La phase 2
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時代の流れと共に、外国から西洋人形が入り、この人形文化が廃れ、山間部で異文化の影響を受けにくい地域(飛騨地方)に残った。
飛騨弁で「ぼぼ」は赤ん坊を指す。
"Bobo" est un dialecte de cette région, ça veut dire "le bébé".
- 猿(さる)…災いが去る
- 猿(エン)…良縁(le bon lien)
- 猿…子宝
- 顔が無い理由
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さるぼぼは、あなた自身であり、鏡を意味する。
楽しいときは楽しい顔、悲しいときは悲しい顔。
Quand vous riez, il rit.
Quand vous pleurez, il pleure.
| 赤 | 伝統的な色 |
|---|---|
| 良縁 安産 家庭円満 |
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| 青 | 学業や仕事を象徴する色 |
| 勉強運 合格祈願 仕事運 出世祈願 |
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| 黄 | 金運を象徴する色 |
| 金運 ギャンブル運 財運 宝くじの当選祈願 |
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| 桃 | 恋愛を象徴する色 |
| 恋愛運 出会い 結婚 |
|
| 緑 | 健康や癒しを象徴する色 |
| 健康運 長寿祈願 |
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| 橙 | 友情や旅の安全を象徴する色 |
| 子宝 友人関係 旅行運 |
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| 紫 | 気品や知性を象徴する色 |
| 出世運 健康運 長寿祈願 幸福 |
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| 白 | 浄化作用やストレス軽減を象徴する色 |
| 浄化作用 子宝 安産 恋愛 ストレス解消 金運 |
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| 黒 | 魔除けや厄除けを象徴する色 |
| 魔除け 厄除け |
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| 金・銀 | 財運や才能開花を象徴する色 |
| 財運 才能開花 |
- 朴葉味噌
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朴の木(ほおのき)の葉(la feuille de magnolia)に自家製味噌とネギなどの薬味、山菜、茸を絡めたものを乗せて焼く料理。
飛騨高山(岐阜県北部)の郷土料理で、冬の間、漬物樽から凍った漬物を温めて溶かし、そこに味噌を加えて食べた。
C'est la cuisine locale à Takayama, au nord de Gifu.
Il fait très fois cette région, donc des légumes conservés sont gelés dans le tonneau.
Quand des gens mangent ça, on cuit sur cette feuille en mélangant des miso.
朴の葉は比較的火に強く、食材を乗せて使うのにちょうどいい大きさ。
Cette feuille de magnolia est forte contre le feu et assez grande pour utiliser comme l'assiette.
朴は飛騨地方の山林では多く自生し、梅雨の頃純白の大きな花を咲かせる。
葉は大きく、10cm ~ 30cm近くのものもある。
8月頃には葉の厚みも増し、朴葉餅にしてお盆に食べる。
朴の葉に包むとカビが生えない。
Cette feuille prévient le moisi.
朴葉餅は、包んだまま焼くことで、朴の葉の良い香りが付いた餅になる。
晩秋、霜が降り始めると葉が落ちるので、それらを拾い集め、3日間ほど塩水に浸し、陰干して保存しておく。
En fin d'automne, des feuilles de magnolia sont tombés.
On les prend, et macère dans l'eau salé pendant 3 jours, et puis fait sécher à l'ombre et conserve.
- 宮川朝市
- 江戸時代から、米市(marché aux rizs)、桑市(marché aux mûriers)、花市(marché aux fleurs)などの市として発達し、明治中期頃から農家の奥様方によって野菜が並べられるようになった。
- 高山陣屋跡
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陣屋は元々、飛騨高山藩主金森氏の下屋敷だった。
- 高山には金、鉄、木材資源が豊富
- 前田家の近くで監視目的
その際、金森氏は高山から山形へ追いやられた。
1695年、高山城の取り壊しが始まり、城主金森氏の家族が居住していた屋敷に代官所を移し、御役所・代官(郡代)役宅・御蔵等を併せて『高山陣屋』と称した。
1695年当時の高山陣屋は、約18,000㎡の敷地を有した。
以来、明治維新に至るまでの177年間に25代の代官が江戸から派遣され、幕府直轄領の行政・財政・警察等の政務を行なった。
1725年老朽化が激しくなった高山陣屋の建物は、御蔵以外全て解体され、旧材を利用して御役所と御役宅に区分して建て替えられ、陣屋としての形態が整えられた。
しかし、敷地は1/3に縮小されている。
明治維新後は、主要建物がそのまま地方官庁として使用。
1969年飛騨県事務所が移転し、高山陣屋跡の管理は岐阜県教育委員会(Le comité local de l'instruction publique)が所管することとなった。
委員会は全国に唯一現存する幕府の陣屋跡を保存すべく、1970年以来、復元修理工事を実施。 - 青雲「若き日の山岡鉄舟」
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1845年、鉄舟9歳の時、飛騨郡代として着任した父と母について高山陣屋へ入る。
高山で書を学び、13歳で禅を学び、国・漢学・絵画等も高山在住時代の8年間に学ぶ等、人間形成の礎は飛騨の風土の中で培われた。
1852年、鉄舟16歳の時、父母の死に伴い江戸へ帰り、のち山岡家の養子となる。
勝海舟や義兄の高橋泥舟等と共に幕臣として活躍、1868年3月、西郷隆盛と会見して江戸を戦火から救い、徳川家の安泰を導いた。
維新後は明治天皇の侍従を務める。
1888年7月19日、坐禅の姿勢のまま53歳で死去。
死因は胃癌。
東京谷中の全生庵に埋葬。
父母の墓は高山市東山宗猷寺。 - 青海波(SEIGAIHA)
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海の波を模した吉祥文様で、江戸時代に流行。
無限に広がる波の模様には、未来永劫続く繁栄と平和への願いが込められている。
青海波は、当時は大床だけでなく玄関の壁や襖の全面に描かれていました。
大床で見られるのは復元で、原物は御蔵内。 - 真向兎(MAMUKIUSAGi)
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部屋の長押(なげし)等の釘頭を隠す装飾。
兎は子を沢山産むことから、縁起のよい意匠とも、火災から建物を守ってくれる魔除けの意味があるとも言う。
真向兎のルーツは、1625年に作庭家・小堀遠州が京都の伏見奉行屋敷を造営した際、襖の引出に用いられた。
なぜ高山陣屋に採用されたかは不明。
※長押…日本建築によく見られる部材。柱面に水平に打ち付けて、柱を連結する材のこと。 - 御役所
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地位の高い役人が執務した部屋。
役所の中枢部。 - 北の御白洲
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民事を扱った法廷。
時には献身的な子や奥方を表彰もした場所。 - 御用場
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地元の役人の執務する部屋。
ただし、口留番所役(関西徴収役人)は不在。 - 帳綴場
- 幕府に提出する文書等を作成する役人が使った部屋。
- 土間
- 赤土・石灰に苦塩(にがり)を混ぜ、水を加えて練り、叩き固める。
- 長持
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衣類や寝具の収納に使用された長方形の木箱。
両端には金具があり、運搬時に太い棹を通して2人で担ぎ、持ち運ぶ。 - 御白洲(OSHIRASU)
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取り調べを行ったり、判決を言い渡した場所。
裁判における法廷の役割を果たした部屋。
御白洲は陣屋内に2ヶ所ある。
一方は、村からの訴えや願いごとを受ける、今で言うところの役所の窓口。
もう一方では罪を犯した人の取り調べや裁きが行われる法廷。
江戸時代の取り調べは、自白が重視された。
そのため自白が得られない場合には厳しい拷問が課される場合もあった。
ただし高山陣屋の拷問道具は、人々を威圧する為に置かれていたと考えられており、実際は牢屋内(現在の上一之町・海老坂付近)で行われていた。 - 御蔵
- 鬼板
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この鬼板(雲板)は、高山陣屋正面玄関(入母屋妻入屋根)の棟飾で、1996年に、玄関、御役所の屋根の葺き替え時に取り替えたもの。
瓦葺の鬼瓦に相当するもので、寒冷地に加え積雪の多いこの地方では、寺社はもとより、屋根は一般に板葺なので、木製のものになっている。
大きさの規格はあるが、彫刻は職人の趣向。
鰭(袖の部分)の絵模様は、雲を象徴する物が多い。 - 大原騒動
- 大原父子の苛政に対し、多大の犠牲を強いられながらも、飛騨の農民達は頑強に抵抗を続けた。
- 1771年…明和騒動
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御用木元伐休山や度重なる租税増徴策に堪えかねた農民が、年貢米江戸直納願に関係した町人の家四軒を打ち壊した。
1人死罪、3人遠島。 - 1773年…安永騒動
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国を挙げて古田畑再検の取り止めを嘆願したが、聞き入れられず、首謀者と目された数十名が磔以下の極刑を受けた。
検地増石の結果、大原代官は布衣郡代に昇進した。 - 1788年…天明騒動
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過納金の払い戻しをしぶり、御用金六千両の調達を強制する等、御役所不正の条々を幕府に告発した。
郡代は八丈島に流され、多数の御役所役人が処刑された。 - 騒動後の行政改革
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郡代大原亀五郎失政の後を受けた飯塚部代は、各方面にわたり大規模な行政改革を行った。
その主なもの - 地役人79人を34人に減らし、その待遇を改善した。
- 解職となった地役人の俸禄を、救難手当米として貯えた。
- 高山・古川及びその近村を除き、年貢を皆金納に改めた。
- 富裕者の手に独占されていた人別米を本来の姿に復した。
- 31箇所の口留番所を17箇所に減らした。
- 御用木(御材木)の復元展示
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江戸時代に飛騨国で伐採されて幕府に納められた「御用木」を実物大で復元した物。
山内で伐採された材木は、その場で角材等に加工され、渡場まで運送された。
渡場からは「川下げ」(川狩り)と言い、川に材木を流して運送した。
飛騨南方山の場合、下麻生の綱場までは管流し(1本ずつ流す)された後筏に組まれ、尾張白鳥湊(名古屋市熱田区)や伊勢桑名湊(三重県桑名市)まで筏流しで流送された。
その後、材木は船積みされ回船によって江戸・大阪・駿河清水湊等へ送られた。
材木には管理の為、検査を経て「切判」が入れられた。
この材木の切判は、次のような内容を示す。 - 「ス」(木品銘)
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杉
ただし、江戸時代の飛騨国で杉は圧倒的に少数であり、材木として杉が拠出された例は稀だった。
また「ス」はネズコに用いられた。
今回は杉材を用いたので便宜上「ス」とした。 - 「二半」(間銘)
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長さ二間半
「飛州材木之定法」は"1間=7尺"とされており、二間半の材木は約530cmとなる。 - 「尺一」(寸銘)
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断面の一片が「一尺一寸」
「五分立」と言い、五分ずつ余分を加えて造材される規定があり、本材の一辺は一尺一寸五分(約35cm)とした。 - 「久」(本切)
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その年に割り当てされた記号。
上に大極印という印が打たれる。 - 「ノ」「ソ」(出役銘)
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改役人(検査官)の記号。
「ノ」は野瀬儀一郎、「ソ」は富田小藤太(礼彦)を示す。
上に出役極印という印を打つ。 - 「T」(村銘)
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伐り出した村(組)の記号。
「T」は秋神組七ヶ村(現在の高山市朝日町地域)
- さんまち通り
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江戸時代の城下町保全区域。
元々は高山城があったが、1692年に高山が幕府直轄領となり城は破却。
以後、旧城下町は町人町となり、飛騨地方の商業の中心として繁栄。
材木商の家屋が立ち並び、庶民の贅沢が禁止されていた江戸時代、外観を簡素にして内装を豪華に仕立てて楽しんだ。
中には樹齢300年の赤松(le pin rouge)が使われた家屋もある。
1979年…国の重要伝統的建造物群保存地区に指定。
2007年…電線地中化。 - 旧高山町役場
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1895年に高山町役場として建設。
その後1968年まで市役所庁舎として使われ、現在市政記念館となって無料開放されている。 - 恵比須台
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1764~72年には屋台の記録がある。
名工谷口与鹿(よろく)を主任棟梁として1846年から3年間かけて大改修。
餝(かざり)金具にはふんだんに純金を使用。
彫刻は全て谷口与鹿の作で、中段の手長足長像は特に人気。
綴錦織の見送幕は西洋の風俗をモチーフにしたもので、異国情緒を感じさせる。
恵比須神を上段に祭神として祀る。 - 原田酒造場
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清酒「山車」は江戸時代から続く手造りの飛騨の地酒。
飛騨米を原料として、酒造りに最適な寒冷気候と清らかな水、伝統の技術が独特のコクを育てる。
現在の建物は、江戸末期の大火の後、残った図面をもとに再建したもので、江戸時代の「飛騨の工匠」の技の名残が随所に伺える。 - 手長像、足長像
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1848年、名工・谷口与鹿は、素戔嗚命(スサノオノミコト)と結ばれた奇稲田媛(クシナダヒメ)の
- 父・足名稚(アシナズチ)を足長に、
- 母・手名稚(テナズチ)を手長に
この像は、それを模したもの。
- 高山別院
- 正式名称…光曜山照蓮寺
- 創建…1253年
- 本尊…阿弥陀如来
- 宗派…浄土真宗真宗大谷派
- 開基…嘉念坊善俊(親鸞の弟子)
-
京都の東本願寺が本山。
善俊は白川郷に念仏道場を構え正蓮寺と称した。
室町時代に門徒が増え、脅威を抱いた在地の土豪内ヶ島氏の焼き討ちで御堂焼失。
1504年、高山に本堂を再建し、光曜山照蓮寺と改称。
照蓮寺は8回に及ぶ火災と再建の歴史を持ち、都度飛騨門徒の浄財で再建。
1963年…耐火建築で現在の本堂再建。
1974年…山門・鐘楼を再建。
2019年…本堂屋根改修工事及び耐震補強工事。
日下部民藝館
- 概要
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高山は元、戦国武将金森長近38,000石の城下町だったが、1692年に金森氏は国替えとなり、飛騨は徳川幕府直轄の天領となった。
以来高山は、町人の町として栄えた。
従って、今に見る高山の伝統は、武家文化中心のものではなく、町衆文化だった。
日下部家は天領時代幕府(代官所)の御用商人として栄えた商家で、屋号を「谷屋」と言い、1852年には役所の御用金を用立てする掛屋を務め、後に両替屋を営んだ。
当時の邸宅は、1875年の大火で類焼し、1879年に完成したのが、現在の建物。
棟梁は当時の名工川尻治助で、彼は自己の技量をこの家に傾注し、江戸時代の建築様式をそのままに見事な住宅を造り上げた。
主屋は、切妻造段違い二階建て、一部吹き抜けの総檜造。
梁と束柱の木組みの力強い構成、屋根の勾配は緩く、軒の出は深い。
また家の正面表構えの出格子、入格子、窓切りの変化、ベンガラに煤を混ぜて焦茶色に塗った木部の仕上げ等、江戸時代高山の町家造りの特色を留めている。
他に土蔵二棟がある。
1966年、明治建築の民家として初めて国重要文化財に指定され、以後民藝館として一般公開。
敷地面積…1,712㎡ -
日下部民藝館は、11代目当主、日下部礼ーが、思想家、柳宗悦の提唱する「民藝運動」の思想に共感し、雑誌「暮らしの手帖」の創刊者として知られるグラフィックデザイナーであリジャーナリスト、編集者の花森安治氏の勧めもあり、自邸を一部改装して、「民藝館」として1966年に開館。
「民藝運動」とは民衆の伝統的生活の中に息づく手仕事による優れた工芸品、民衆の暮らしの中から生まれた美の世界、その価値を人々に紹介しようとするもの。
日下部民藝館に展示される作品もこの考えに沿って、日下部家に代々伝わる工芸品や、民藝を代表する朝鮮半島の李朝時代の家具や工芸品、古伊万里焼や小鹿田焼きなどの日本の陶磁器、根来塗などの漆芸品や木工作品、染色品、また、柳宗悦と同じく民藝運動の推進者であった、浜田庄司や河井寛次郎、黒田辰秋など近代工芸家の作品、そして飛騨地方の伝統工芸品である、渋草焼や春慶塗、飛騨の匠の技が見事に現れた、一位一刀彫、根付のコレクションなどが展示されている。 - 火鉢
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日本の昔ながらの暖房器具。
灰の上に炭火を置いて暖を取る。
寒さの厳しい飛騨の冬、暖房設備の無い時代、火鉢は必須。
火鉢の素材は金属や陶器、木で出来た物が一般的で、形状や大きさも様々。
ここては飛騨ならではの春慶塗の火鉢も見られる。 - 日下部家に嫁いだ女性の婚礼衣装と嫁入り道具。豪華な蒔絵の硯箱や香枕、双六や百人一首などの遊び道具、家紋の入った鏡や化粧道具の展示
- 簪(かんざし)・笄(こうがい)
-
日本髪の髪形をまとめたり、髪飾りとして使った物。
笄は髪を巻きつけてまとめたり、挿したりする棒状の物。
簪は近世以降髪形が多様になった事や年齢層によっても様々な種類がある。 - 綿帽子
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和式の婚礼の儀において、花嫁が文金高島田(ぶんきんたかしまだ)と呼ばれる、日本的な高い髷(まげ)を結った髪の上に、頭を覆う形で被る、白い袋状の被り物。
本来は、真綿を加工して広げて作る防寒具の事だったが、後に婚礼衣装のひとつとなった。
角隠しと同様の使い方をするが、角隠しが色打掛にも用いられるのに対し、綿帽子は白無垢の場合だけに用いる。
通例、綿帽子は、挙式の際に着用し、披露宴では着用しない。 - 油壺
- 日本髪を結う時に使われる鬢付け油を入れる容器。
- 挿櫛
-
飾り櫛とも言う。
髪飾りとして女性の髪に挿す櫛で、鼈甲や漆塗り素材に、蒔絵、螺鈿などの装飾が施されている。 - 香枕
- 中に香を入れて炊き、女性の洗い髪に香りを移す物。
- 鏡
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古い時代の鏡は移す面がガラスではなく、銅の合金でできており、化粧用として使うには職人が時々磨いて曇りを防がなければならない。
鏡は神聖なもので鏡筥(かがみばこ)に入れて大切に保管した。
日下部家の家紋(丸に蔦le lierre)が彫刻されている。 - たちつぶら
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「つぶら」は昔の農・山村などで使われた育児用具で、赤ん坊を中に入れて動き回らない様にする為の道具。
「たちつぶら」は歩行が出来る様になった頃の赤ん坊を入れておく「つぶら」で、この様な物は飛騨を中心に岐阜県に限定されていた。 - 仏壇
-
約300年前に作られた仏壇で、日下部家先祖代々の位牌が祀られている。
京都の職人が製作した物で非常に精巧な彫刻や細工が見事な仏壇。
この仏壇の底部には車輪が埋め込まれており、有事の時に対応できる。
移動させる時には車輪を出して動かす。
1875年にこの界隈で大火事があった時にもこの車輪を使って移動させ、焼失を免れた。 - 月暦(大小板)
- 1873年、日本で太陽暦が
- 弓張提灯
-
箱の中に入っているのは提灯で、電灯の無かった時代の照明器具。
引張提灯は竹製の弓の形をした骨格と和紙で出来ており、持ち手に提灯を取り付け、据え置き用にも携帯用にも使われた。 - 渋草焼
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1841年、時の郡代、豊田藤之進が地元産業の発展を目指して陶磁器の生産を企画し、高山西郊、上岡本渋草丘に半官半民の窯を開いたのが始まり。
戸田柳造など尾張瀬戸や九谷から優れた陶工、画工を招聘して技法を取り入れながら独自の磁器を生みだして飛騨九谷、飛騨赤絵とも呼ばれる優れた作品を生み出した。
明治に入り、窯名は『芳国社』と、戸田柳造の意思を引き継いだ弟子が開いた『渋草柳造窯』とに分かれて存続し、現在も『渋草調』といえる、青磁、染付、赤絵、鉄砂、染錦など格調の高い花器、茶器、食器を作っている。 - 松田亮長(1800~1871)
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一位一刀彫は、一位の木を材料に、木の色合いを生かして、加飾、着色することなく、彫刻刀のみで彫り上げる、飛騨高山を代表する伝統的木工芸。
江戸時代末期に活躍した、松田亮長は、一位一刀彫の大成者。
幼い頃より彫刻を好み、京都、奈良、江戸等、各地を巡り、古い寺や神社の彫刻を研究して技を磨いた。
特に根付彫刻では技術力、表現力に共亮長の優れた才能が余す事無く発揮されている。 - 谷口与鹿(1822~1864)
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1822年、代々、高山の社寺番匠(宮大工)を生業とする谷口家の次男として生まれた。
15歳の時に父を失ったが、東照宮造営時に彫刻を担当した中川吉兵衛を師として彫りの技を見習い覚えた。
工匠としても、彫刻家としても天賦の才を持ち、近世の飛騨匠の代表作家と言われ、特に高山祭りの屋台彫刻では神技の様な表現と技術を発揮。
宗猷寺玄関の龍、白山神社の太鼓の昇り龍、降り龍など後年数々の名作を残して高山を去り、京都に上り、摂津伊丹(大阪府伊丹市)に移住。 - 小鹿田焼き
Onda-yaki -
九州、大分県日田郡(現在の日田市)で江戸時代から開窯され、現在も10件の窯元が一子相伝のもと技術を継承し続けている、日本の民窯の代表的な窯元。
伝統的な「流しかけ」や「飴釉」の技法に加え、大正初期から昭和初期にかけて取り入れられた「飛び鉋」や「打ち刷毛目」の技法が今日の小鹿田焼の特徴となっている。
1931年に柳宗悦が小鹿田焼を広く紹介し、Bernard Leach(un céramiste britannique)が逗留して作陶した事から全国的に有名になった。 - 根来塗り
Negoro-nuri -
木地の上に布を張り、幾度か黒漆を塗り重ね、最後に朱漆をかけて仕上げた漆塗りの技法。
鎌倉時代~戦国時代、紀州の根来寺の密教僧達によって作られた寺院の什器や日用雑器が名称の起源。
黒と朱の二色以外はほとんど使わず、堅牢な力強い造形が特徴。 - 飛騨春慶
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春慶塗は素材に木曽檜(le cyprès)、椹(サワラ≅檜)を用い、生地に透き漆をかけ、豊かな琥珀色(ambré)に塗り上げ、天然の木目の美しさをそのまま生かした風合いが特徴。
1607年、当時の高山城主・金森可重の子、金森重近公(茶道宗和流の祖、金森宗和)に、宮大工・高橋喜左衛門が、椹の木目を生かして作った蛤型のお盆を献上したところ、重近公が気に入って御用塗師・成田三右衛門がその美しい木目を生かして透き漆を塗らせた物が起源。
微妙な光と影が織り成す艶、美しく繊細な色調が茶道の名陶"飛春慶"に相似している事から「春慶塗」と名付けられた。 - バタフライスツール
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柳宗悦の長男で、戦後日本を代表するプロダクトデザイナー・柳宗理が1954年にデザインした代表的作品『バタフライスツール』のプロトタイプ(le prototype)。
1956年の発売以来、国内外問わず非常に高く評価され、日本を代表する椅子のデザインとして知られている。
同様の物がLe musée du Louvre、ニューヨーク近代美術館(MoMA)にも収蔵されている。
2階
1階
土蔵
高山祭屋台会館
- 高山祭り
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日枝神社の春祭り(4/14,15)と、桜山八幡宮の秋祭り(10/9,10)を合わせた祭。
屋台は春祭り12台、秋祭り11台。
屋台会館には秋祭り用屋台が展示、他の屋台は蔵に収納。
年に3回(3月、7月、11月)入れ替え。
※館内フラッシュ撮影禁止 - 御神輿
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重量2トン半で、40人で担ぐ。
交代要員含めた担ぎ手は総勢80人必要。
現在は背の高い担ぎ手不足により1958年以降担がれていない。
代わりに4人で担げる小さな御神輿で代役を務めている。
※左側の写真…1951年の実際に担いでいる写真。横に2本棒を入れて担ぐ。 - 屋台
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実際に使われている秋の屋台を展示。
重量は2~3トン、20人で曳く。
屋台の出し入れは2台目と3台目の間と階段下の2箇所にある観音開きの扉から行う。
屋根を支えている4本の赤い柱を50cmから150cm程下げて出し入れする。 - 桜山日光館
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入館チケットまたはパンフレットで入場可。
大正年間(1912~26)に33人の技術者によって15年かけて制作した日光東照宮の1/10の模型。 - 神楽台
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一番古い屋台。
350年前に原型が出来ている。
現在の屋台は1904年に現在の形になった。
毎年祭りの屋台行列の先頭に立つ特権を持つ。
屋台上段で5人が祭囃子(笛2人、太鼓2人、締太鼓1人)をはやす。
屋台の前で4組の獅子が舞って屋台を誘導する。 - 豊明台
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応神天皇の幼名豊明宮(とよあけのみや)から名付けられた。
飛騨の匠の技術が集中した屋台。
下段に取り付けられた獅子の彫刻と金具を打った御所車の調和のとれた高山で最も美しい屋台。 - 行神台
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上段の人形は行者(仏教の修行僧)。
中段の赤い柵は神社にある朱塗りの玉垣。
神社建築様式を色濃く取り入れる。
神と仏が一体となった屋台。 - 仙人台
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約220年前の屋台。
仙人の人形は元はからくり人形だった。
からくり奉納の内容は、仙人が地上を見下ろすと洗濯をしている美女がいて、見惚れて墜落してしまうというもので人気があった。
しかし、代官所より大衆の前で行う芸としては良くないとし、以降中止になる。 - 布袋台
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1782~88年創建。
布袋の操り人形が主題。
布袋和尚と唐子(唐の子供)2体は、操り手綱36条と9人の綱方を要する極めて複雑なからくり人形で、離れからくり人形中日本最高のもの。 - 鳩峯車
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1747年創建、1837年再建。
中段前面に雲龍、側面に明人遊苑図の刻糸幕、後面見送りは綴錦のササン朝モードの樹下仙人美人図の垂幕は稀品。 - 金鳳台
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上段に桜山八幡宮の御祭神応神天皇の母神功(じんぐう)皇后と臣下の武内宿禰(たけのうちのすくね)の人形を取り付けている。
欄間には谷口与鹿(よろく)による四季の花が描かれている。 - 大八台
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高山で最初の三輪の屋台で御所車の直径は1.56mある。
中段は平安朝風御殿造りで囲いが無く簾を垂らし、この御殿で烏帽子、直衣の装束を着た童子達が優雅な屋台囃子の大八の曲を演じる。 - 神馬台
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1718年以前の創建、1769年再建、1781年新調。
神馬と白丁2人の飾り人形を備える。
中段の紫鱗紋織出しの大幕に左右側面に2個ずつ後面に1個の般若面を大きく刺繍。 - 宝珠台
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創建年不明、1828年の大改修で棟飾りに雌雄の大亀を乗せた。
この大亀は屋根を軽くするため和紙に漆をかけた一閑張りで出来ている。
この屋台の台輪は、欅材の一枚板で高山の屋台で最も美しい。