Tokyo Guide Francophone

menu

岐阜県

岐阜県 岐阜市 高山市 飛騨市 白川村
面積 9,800㎢
【7位】
203㎢ 2,177㎢ 792㎢ 356㎢
人口 1,960,000人
【17位】
400,000人 82,370人 22,000人 1,451人
人口密度 184人/㎢
【30位】
2,000人/㎢ 37人/㎢ 27人/㎢ 4人/㎢

目次


白川郷

概要
1995年に五箇山と共に「白川郷・五箇山の合掌造り集落」としてユネスコの世界文化遺産に登録される。
地名としての白川郷は12世紀半ば、合掌造りは17世紀末に原型ができたと推測されている。
現在約100棟余り。
萩町地区は他地域と違い、今でも実生活の場として使われているところに価値がある。

合掌造り
合掌...prier les mains jointes
茅葺の叉首構造の屋根が大きな特徴。
合掌を模した屋根の傾斜は豪雪による雪下ろし作業(déneiger le toit)軽減や多雨地帯の為の水はけ(imperméable)も考慮している。
また、屋根の勾配を急にすることで、屋根裏に2層や3層の空間を確保でき、光や風をしっかり取り入れる為、養蚕業(sériciculture)にとっても都合が良い。
白川村や五箇山には切妻屋根、旧荘川村には入母屋屋根が多い。
茅葺屋根の葺き替えは、約30年に一度行われ、地域住民の労働提供による共同作業によって行われ、これを「結」と呼ぶ。
必要予算は一戸当たり約1,000万円~2,000万円。
なぜ昔にそれほどの支出が出来たかというと、農業以外の収入源がこの村にあった為。
養蚕業の産物として蚕(ver à soie)の糞(crotte)が大量に得られた。
この糞と草、人の尿(urine)を床下で発酵させて、硝酸カリウム(le nitrate de potassium)を精製した。
これは火薬(poudre)の原料となり、戦国時代には日本全国へ出荷された。
また、山の中で秘密が保たれ、この製法が外部に漏れることは無かった。
毎年11月上旬頃、万が一の火災に備えて一斉放水の訓練が行われる。

和田家
1573年より続く家柄で、当主は代々「弥右衛門」を名乗った。
家屋自体は江戸時代末期建造で、当時は20人以上が住んでいたと言われている。
それは、山間で土地が狭く、次男や三男も分家することなく、長男を中心とした大家族を形成していた為。現在も住居として使われている。
江戸時代中期から1960年代まで、どの合掌家屋でも養蚕が行われていた。
現在、白川村には1,600人ほどが暮らしている。
囲炉裏は暖を取ったり料理をしたりする以外に、煙で茅葺の防虫や防臭効果もある。

長瀬家
白川郷最大級の5階建て合掌造り家屋。
長瀬家五代当主民之助が建造し、1890年完成した。
約11mの一本柱(合掌柱)が、屋根の勾配の上から下までを貫き、大きな屋根を作る。
柱材には樹齢150年以上の天然檜を用い、その他樹齢300年を越える桂、栃、欅等が随所に使われている。
3年がかりの大工事で、総工費は当時の金額で800円、その他米100俵、酒11石8斗を費やしたと伝えられている。
総床面積は約600坪。
1階は主な生活の場である。
2階は使用人の寝所等。
3、4階は養蚕の作業場。
5階は薬草の干し場。
260年続く旧家の長瀬家は、初代から三代目当主までが漢方医であり、中でも加賀藩の藩医であった三代目善作は前田家に大いに引き立てられ、約500年前の作と言われる壮麗な仏壇の他、蔵一棟を譲り受け、今に伝えられている。
その蔵には貴重な美術品、什器等が多数保存されている。

各階には長瀬家に伝わる品々を展示、白川郷の歴史を合掌造り建築とともに体験できる。
4階 山仕事道具、農器具等展示
3階 生活用具等展示
1階 祝祭道具、医療具等展示

高山

概要
標高約573m。
飛騨の小京都とも呼ばれる、江戸時代からの城下町風景が保全されている町。
フランスのミシュラン実用旅行ガイド「Voyager Pratique Japon」で三ツ星。
関ヶ原の戦い以降、金森氏が支配し、商業活動を重視した。
周囲を山で囲まれているので、県庁所在地からのアクセスが悪く、鉄道の開通も1933年と遅く、近代化の波から取り残された。
また、古くから幕府との繋がりが強く、伝統を守るという保守的な意識が高かった。
地酒も輸出すれば価値がなくなってしまうため、高山で造って、高山で飲むことが重要視された。

さるぼぼ
奈良時代に遣唐使が中国から伝えた形代が原型。
当時貴族の間で「産屋のお守り」(le porte-bonheur)として正絹(soie)で作られたものが流行し、その後家にある余り布(le reste de tissus)などで作られたものが民間に広がり、
「安産(accouchement facile)」
「子供の成長(croissance des enfants)」
「良縁(bon mariage)」
「無病息災(la santé)」
などを願うお守りとされていった。

時代の流れとともに新たな人形が作られ、外国からも西洋風の人形が入ってくると、この人形文化が廃れていき、山間部で異文化の影響を受けにくい地域(飛騨地方など)に残った。
飛騨弁で「ぼぼ」は赤ん坊を指し、猿の赤ん坊の意味。
"Bobo" est un dialecte de cette région, ça veut dire "le bébé".
猿(さる)=災いが去る
猿(エン)=良縁
猿=子宝

顔が無い理由は、さるぼぼはあなた自身であり、鏡を意味している。
楽しいときは楽しい顔、悲しいときは悲しい顔。
Quand vous riez, il rit. Quand vous pleurez, il pleure.

宮川朝市
江戸時代から、米市(marché aux rizs)、桑市(marché aux mûriers)、花市(marché aux fleurs)などの市として発達し、明治中期頃から農家の奥様方によって野菜が並べられるようになった。

屋台

高山祭り
日枝神社の春祭り(4/14,15)と、桜山八幡宮の秋祭り(10/9,10)を合わせた祭。
屋台は春祭り12台、秋祭り11台。
屋台会館には秋祭り用屋台が展示されており、他の屋台は蔵に収納。
年に3回(3月、7月、11月)入れ替え。
※館内フラッシュ撮影禁止

御神輿
重量2トン半で、40人で担ぐ。
交代要員含めた担ぎ手は総勢80人必要。
現在は背の高い担ぎ手不足により1958年以降実際に担がれていない。
代わりに4人で担げる小さな御神輿で代役を務めている。
※左側の写真...1951年の実際に担いでいる写真。横に2本棒を入れて担ぐ。

屋台
実際に使われている秋の屋台を展示。
重量は2トン〜3トン、20人で曳く。
屋台の出し入れは2台目と3台目の間と階段下の2箇所にある観音開きの扉から行う。
屋根を支えている4本の赤い柱を50cmから150cm程下げて出し入れする。

桜山日光館
入館チケットまたはパンフレットで入場可。
大正年間(1912~1926)に33人の技術者たちによって15年をかけて制作した日光東照宮の1/10の模型を展示。

神楽台
一番古い屋台。
350年前に原型が出来ている。
現在の屋台は1904年に現在の形になった。
毎年祭りの屋台行列の先頭に立つ特権を持つ。
屋台上段で5人が祭囃子(笛2人、太鼓2人、締太鼓1人)をはやす。
屋台の前で4組の獅子が舞って屋台を誘導する。

豊明台
応神天皇の幼名豊明宮(とよあけのみや)から名付けられた。
飛騨の匠の技術が集中した屋台。
下段に取り付けられた獅子の彫刻と金具を打った御所車の調和のとれた高山で最も美しい屋台。

行神台
上段の人形は行者(仏教の修行僧)。
中段の赤い柵は神社にある朱塗りの玉垣。
神社建築様式を色濃く取り入れる。
神と仏が一体となった屋台。

仙人台
約220年前の屋台。
仙人の人形は元はからくり人形だった。
からくり奉納の内容は、仙人が地上を見下ろすと洗濯をしている美女がいて、見惚れて墜落してしまうというもので人気があった。
しかし、代官所より大衆の前で行う芸としては良くないとし、以降中止になる。

布袋台
1782年~1788年創建。
布袋の操り人形が主題。
布袋和尚と唐子(唐の子供)2体は、操り手綱36条と9人の綱方を要する極めて複雑なからくり人形で、離れからくり人形中日本最高のもの。

鳩峯車
1747年創建で、1837年再建。
中段前面に雲龍、側面に明人遊苑図の刻糸幕、後面見送りは綴錦のササン朝モードの樹下仙人美人図の垂幕は稀品。

金鳳台
上段に桜山八幡宮の御祭神応神天皇の母神功(じんぐう)皇后と臣下の武内宿禰(たけのうちのすくね)の人形を取り付けている。
欄間には谷口与鹿(よろく)による四季の花が描かれている。

大八台
高山で最初の三輪の屋台で御所車の直径は1.56mある。
中段は平安朝風御殿造りで囲いが無く簾を垂らし、この御殿で烏帽子、直衣の装束を着た童子達が優雅な屋台囃子の大八の曲を演じる。

神馬台
1718年以前の創建、1769年再建、1781年新調。
神馬と白丁2人の飾り人形を備える。
中段の紫鱗紋織出しの大幕に左右側面に2個ずつ後面に1個の般若面を大きく刺繍。

宝珠台
創建年不明、1828年の大改修で棟飾りに雌雄の大亀を乗せた。
この大亀は屋根を軽くするため和紙に漆をかけた一閑張りで出来ている。
この屋台の台輪は、欅材の一枚板で高山の屋台で最も美しい。

陣屋
陣屋元々、飛騨高山藩主金森氏の下屋敷だった。
Au début, c'était une maison d'un seigneur Kanamori.

当時この地には金、鉄、木材などの資源が豊富に採れた。
À cette époque-là, il y avait beaucoup d'ors, fers, et bois.

また、前田家の近くという立地もあり、徳川家が前田家を監視する目的も兼ねて、高山を直轄地(dominer directement)にした。
Comme ça se trouve près du territoire d'un grand seigneur Maeda, Tokugawa a dominé directement Takayama pour le surveiller.

その際、金森氏には高山から山形へ追いやられた。
Tokugawa a délogé Kanamori de Takayama.

ここ陣屋は1692年、江戸幕府が飛騨国を直轄領として管理する為に設置した代官所(Administration)。
Ici, Jinya est une administration pour que Tokugawa contrôle cette région depuis 1692.

建物は部分的に改修や復元はされているものの、江戸時代当時の造りが活かされ、現存する唯一の陣屋であることが文化財として高く評価されている。
Ce bâtiment a été restauré plusieurs fois mais c'est une seule ancienne administration donc c'est vraiment précieuse.

明治維新以後、高山県庁舎等として使用。
1969年、県庁移転後、岐阜県教育委員会が16年の歳月と20億円(2milliard yens)をかけて1995年に修復完了。

さんまち通り
江戸時代に整備された城下町の商家町が保全されている区域。
元々は高山城があったが、1692年に高山が幕府直轄領となり城は破却。
以後、旧城下町は町人町となり飛騨地方の商業の中心として栄えた。
材木商の家屋が立ち並び、庶民の贅沢が禁止されていた江戸時代、外観を簡素にして内装を豪華に仕立てて楽しんだ。
中には樹齢300年の赤松(pin rouge)が使われた家屋もある。
1979年に国の重要伝統的建造物群保存地区に指定され、2007年には電線(le fil électrique)地中化工事がなされた。

朴葉味噌
朴の木(ほおのき)の葉(la feuille de magnolia)に自家製味噌とネギなどの薬味、山菜、茸を絡めたものを乗せて焼く料理。
飛騨高山(岐阜県北部)の郷土料理で、冬の間、漬物樽から凍った漬物を温めて溶かし、そこに味噌を加えて食べた。
C'est la cuisine locale à Takayama, au nord de Gifu.
Il fait très fois cette région, donc des légumes conservés sont gelés dans le tonneau.
Quand des gens mangent ça, on cuit sur cette feuille en mélangant des miso.

朴の葉は比較的火に強く、食材を乗せて使うのにちょうどいい大きさ。
Cette feuille de magnolia est forte contre le feu et assez grande pour utiliser comme l'assiette.
朴は飛騨地方の山林では多く自生し、梅雨の頃純白の大きな花を咲かせる。
葉は大きく、10cm ~ 30cm近くのものもある。
8月頃には葉の厚みも増し、朴葉餅にしてお盆に食べる。
朴の葉に包むとカビが生えない。
Cette feuille prévient le moisi.
朴葉餅は、包んだまま焼くことで、朴の葉の良い香りが付いた餅になる。
晩秋、霜が降り始めると葉が落ちるので、それらを拾い集め、3日間ほど塩水に浸し、陰干して保存しておく。
En fin d'automne, des feuilles de magnolia sont tombés.
On les prend, et macère dans l'eau salé pendant 3 jours, et puis fait sécher à l'ombre et conserve.