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長野県

長野県 長野市 松本市
面積 14,000㎢ 800㎢ 1,000㎢
人口 2,000,000人 360,000人 200,000人

目次


長野地理
東西128km、南北220km
面積…14,000㎢で、北海道、岩手県、福島県に次いで第4位。
標高2,000~3,000m級の山々。
可住地面積は24%程度。
1998年…第18回冬季五輪開催地。


松本城
  • 築城年…1504年
  • 築城者…小笠原氏
  • 廃城年…1871年
  • 国宝指定…1936年
1504年…氏族(un clan)小笠原氏が林城を築城し、その支城(une succursale)の一つとして深志城が築城されたのが起源。
1550年…武田氏の侵攻により深志城落城→小笠原氏追放。
→武田は城を破却して深志城に家臣の馬場信春を配置し、松本盆地を支配。
1582年…織田信長により武田氏滅亡。
しかし本能寺の変で信長が討たれると、領地は上杉景勝に擁立され小笠原旧臣の助力を得た小笠原洞雪斎が奪還。
更に徳川家康の家来となった小笠原貞慶が旧領を回復し、松本城と改名。
16世紀…戦の為の築城
17世紀…平和の時代の築城
現存十二天守の一つで、現存唯一の漆黒の天守
黒漆塗りで別名「烏城」
天守29.4m、天守台5m

松本城と城下町
深志城時代…二の丸東側は市町、西方は沼地。
1580年代…石川氏(豊臣大名)による本格的な近世城造り開始。
1593年頃…2代目家長が天守造営。
広さは39haで、内郭には天守、御殿、蔵など城主と藩の施設を置き外郭は上級家臣の屋敷地とした。
総延長3.5kmの塁上には透き間なく土塀をかけ、厳重な城門を構える虎口(枡形と馬出し)だけが城内への通路だった。
城外は南から北へ通る善光寺街道に沿って城下町を割り、その東側に寺社を配置。
居住区分は厳格で侍と町人の混住は無く、侍屋敷地は木戸の内と外に分けて中級と軽輩の居住区とし、町人地は親町3町、枝町10町、24小路に区分し、身分や職業によって住まわせた。

松本城保存の功労者
小林有也(うなり)(1855~1914)
大阪出身、初代松本中学校長として来任し、29年間子弟の教育に尽くした。
荒廃していた天守を憂い、1901年に松本天守閣保存会を設立し、11年間にわたる修理の中心となり、天守を倒壊の危機から救った。
市川量造(1844~1908)
松本城下町の下横田町生まれ。
1872年に松本城天守が競売に付され、235両余りで落札され取り壊されるのを憂い、天守買戻しに尽力し、その保存に貢献した。
後に、戸長、県会議員等を歴任。

宇宙のツツジ
日本人初の女性宇宙飛行士(la première astronaute japonaise)向井千秋さんと宇宙を旅したツツジの種(une graine)から発芽(bourgeonner)。
向井さんの出身地、群馬県館林市から私本市に寄贈。
松本市は、花いっぱい運動発祥の地。
2000年5月1日植樹。
向井千秋
1994年…スペースシャトル・コロンビア号でのミッション
1998年…スペースシャトル・ディスカバリー号でのミッション

武者走
天守1階の周囲1間通りは、内側の床より50cm低い。
これを武者走と呼ぶ。
由来は戦闘時、武士が矢(la flèche)と弾(la balle)を持ってここを走り回る為。

矢狭間・鉄砲狭間
la meurtrière
松本城天守築造は、関が原合戦以前。
その為武装強化が重要。
弓や鉄砲を発射する狭間が多いのはその為。
  • 小さい方形…鉄砲狭間
  • 長方形(le rectangle)…失狭間
と呼び、内側が広く外側が狭い。
蓋無しの初期的構造。
矢狭間60箇所、鉄砲狭間55箇所

鯱真木(しゃちしんぎ)
天守に据えられた鯱を支える為の芯木。
この鯱真木は、昭和の修理(1950~55)の際、新しい真木と取り替えられた物で「天保十四癸卯(1843)四月取替」と墨書されている。
長さは190cmで大棟下の棟木に取り付けられ、その先端80cmが鯱の中に入っていた。

天守大棟の鯱
鯱は、頭は竜または虎に似ていて、背には説いとげ(une épine[e-pin])を持つ海魚の形をした想像上の動物。
大海の水を飲み干し、非常時に吐き出して身を守る。
火災除けとして天守等の大棟に上げられ、棟飾りに使われている。
ここに展示してある鯱は、昭和の修理(1950~55)の際に新しい鯱と取り替えられた物で、高さは127cm(雄mâle)と124cm(雌femelle)。

懸魚芯材
天守の千鳥破風と入母屋破風には「かぶら懸魚」を取り付けてある。
この懸魚芯材は、辰巳附櫓の物。
材は檜(le cyprès)で創建当時の物と推定。
芯材の下げ苧(さげお=麻)を細かく釘止めしてから、白漆喰を塗り重ねて仕上げる。
上部の「六葉」と「樽の口」は黒漆塗り。

階段
松本城天守の階段は、1階から6階までに7箇所。
その位置がお互いに離れているばかりでなく、どの階段も勾配が急(55~61度)で、特に4階から5階へと登る階段は蹴上げが40cmあり最も険しい。

壁の構造
天守の壁は、各階とも外壁は塗りごめの「大壁」、内壁は柱の見える「真壁」
下地には、径1.5~3cmのサクラ、カエデ、リョウブなどの細丸太(こまい材)使用。
壁の厚さは1・2階で28.8~29.4cm、上階ほど薄くなっているが火縄銃の弾は通さない。
この壁は、昭和の修理の際、保存の為に一部切り取った創建当時の2階の壁。

天守の土台支持柱
天守の土台は、天守台の中に埋め立てられた16本の土台支持柱によって支えられていた。
支持柱は土台の入側通りに12本、中央部に4本が、碁盤目状に立てられていた。
支持柱は全てツガ(la même espèce de pin)材で、径36.3~39.3cm、長さは5mあり、その下端は地盤に達し、上端は土台に「ほぞ差し」になっていた。
この土台支持柱は、北側東より2本目の柱の一部。

松本城鉄砲蔵
松本城天守は、日本へ1543年に初めて火縄銃が伝わってから、50年後の1593~94年にかけて築造。
天守の厚い塗り込めの壁や多くの鉄砲狭間は、火縄銃の攻防を予想して築かれた。
松本市出身の赤羽通重(※)は、一生涯かけて、多くの銃・装備品・文書類を収集。
氏はこの貴重なコレクションを鉄砲戦を想定して築造された松本城に展示する事は意義が深いと考え、鉄砲141挺をはじめ数多くの装備品や文書類を松本市に寄贈。
松本市では、1988年6月に「松本城鉄砲蔵」を開設し、さらに質・量共に充実した赤羽コレクションを、1999年3月に松本城天守二階と松本市立博物館とに分けて展示。
松本城天守には火縄銃の種類や製銃地等を、また松本市立博物館には武器を歴史の流れにそって位置づけて展示。
※赤羽通重
松本市出身で東京で料亭を経営していた古式銃の収集家。
1988年に火縄銃や兵装品100点以上を故郷の松本市に寄贈。

武者窓と突上戸
天守二階の東・南・西側と四階の東と西側は柱間に5本の格子(le barreau)をはめた武者窓。
格子は13cm程の角材を用い、上下の框(かまち)も大きい。
内側から武者窓を見ると、外光を遮る明暗の縦稿が大変美しい。
中でもこの窓が五連あるいは三連の二階南側と東側は城らしく豪壮な感じを受ける。
なお、外側は上部に蝶番のついた突上戸で風雨を防ぐ。

天守一階
天守一階は1間毎に柱が立ち天守全体の重みを支えている。
多くの柱に小穴が残っていて、柱の間は壁だった事を裏づけている。
この小舞穴の痕跡から考えると、中央に十文字の通路があり、2間×3間の部屋が4室あった事が分かる。
この間取りから見て天守1階は食糧や弾薬等の倉庫であったと思われる。

石落
le mâchicoulis
天守一階の四隅に壁から張り出して下方に開口(常は蓋をする)する構造を石落と呼ぶ。
これは石垣を登ってくる敵に石を落したり、弓や鉄砲で撃退する装置。
松本城では四隅の他天守一階の中央や乾小天守・渡櫓にも石落が設けられ、他城に比べて数が多い。(11箇所)

天守二階
天守二階の母屋の中の柱間(京間寸法)は東西7間、南北6間で、柱に残る小舞穴の痕跡から、この階は8室に部屋割りされていたことが分かる。
武者窓(竪格子窓)からの明かりも多く、有事には武者達の営所に当てる事ができた。

天守四階
天守四階はガラリと室内の趣が異なる。
柱が少なく天井が高い上に、四方から外光が入るので明るく広々とした感じを受ける。
柱・鴨居・長押などは全て鉋仕上げで、鴨居の上には小壁もあり居室風に設えてある。
敷居が無いので建具は用いられていなかったが、幕や屏風で仕切れば入側と二つの部屋に分かれる。
有事の際、六階と共に城主の座所(貴人が着座する場所)に当てられた。

天守五階
天守五階は、中央に3間×3間の大広間を置き、周囲は入側と四つの破風入込間という構成。
有事には幹部の居所に当てられる。
四方に窓が開いていて大階と共に戦況を見るのに都合が良い。
なお、この階の柱は全部で30本あり、全て創建当時の物である。
うち入側隅柱4本(ヒノキ1、アスヒ3)は六階との通し柱である。
また、北側・東よりの柱には明治修理の際、綱をかけて柱を引き起こした擦傷がある。

天守六階
天守六階は周囲に3尺(90cm)通りの入側が巡る3間の一部屋となっている。
無目敷居が回っているので、畳を敷くことも可能(階段を除き京間16畳)。
有事には最高幹部の司令塔(城主の座所)となる所。
六階の床面は地上22m

守護神二十六夜社勧請の由来
1618年、天守六階、小屋梁の上に二十六夜社を勧請。
其の年の正月、月令二十六夜の月が東の空に昇る頃二十六夜様が、天守番の藩士、川井八郎三郎の前に美婦となって現われ、神告があった。
翌朝この事を藩主に言上し、翌2月26日に社を勧請。
松本城の守護神。

辰巳附櫓二階
天守の辰巳(南東)に当たり、隣接している月見櫓と共に松平直政によって寛永年間(1624~44)に増築。
櫓西面の北から2本の柱は天守の柱に添えられていて、付設された事が分かる。
花頭窓(※)は、禅宗建築と共に鎌倉時代に中国から伝わり、次第に城郭建築にも広がった。
※花頭窓
窓の上方が尖った特殊なアーチ型になった花頭窓(かとうまど)。
禅宗寺院の建築に見られる形式で、中国に興り日本へは鎌倉時代に入った。
後に城郭建築にも広がる。
窓の内側には、引分の板戸が付き、下の敷居には水切りの小穴があけられている。

月見櫓
北・東・南に設えてある舞良戸を外すと、三方吹き抜けになり、回りに巡らされた朱塗りの回縁や船底型の天井等書院風の造りと相まって、優雅な雰囲気を醸し出し、天守・渡櫓・乾小天守と比べ開放的で、平和な時代に造られた事が分かる。
この月見櫓は松本城主松平直政(家康の孫)によって、一国一城令統制の厳しい中、寛永年間(1624~44)に3代将軍家光を迎える為、増築された物である。
現存する城郭建築の中で月見櫓を持つのは松本城と岡山城だけであるが、天守と一体となっているのは松本城のみ。


大王わさび農場

  • 開場…1917年
  • 栽培面積…15ha
  • 年平均収穫量…90トン
栽培工程
わさび栽培には平地式、渓流式、畳石式がある。
複合扇状地にあり、養分に富んだ湧水に恵まれた大王わさび農場では全国的に珍しい平地式栽培。
特徴的な石造りの畝立ては、わさびの生育には欠かせない湧水を一定量、絶える事なく行き渡らせる手法で、同時に美しい畑の風景を作り出す。
わさびは冷涼な気候を好む為、畑の周りにポプラやアカシアを植え、夏場は黒い覆い(寒冷紗)で水温の上昇を抑える。
石造りの畑では通常、わさびを植えて1年で出荷するが、大王わさび農場では18ヶ月を費やし、太陽と湧水のみで育てる独特の栽培方法で、よりコクと香りのある上質のわさびを出荷する。
  1. 石洗い・整地
    …ジョレン(la houe)を使い、湧水の流れを良くする。
  2. 畝(le billon)立て
    …地形を活かし、角度を工夫して湧き水の流れを調整。
  3. 定植(la plantation)
    …畝の両脇に手作業で苗を植える。
  4. 育成(la culture)
    …排水磨き、アオミドロ掃き、雑草取り等の手入れをする。
  5. 収穫(la récolte)
    …道具は無く、手作業で掘り取る。

大王の歴史
1915年…深澤勇市が豊富な湧き水を利用するわさび田の開拓を思い立つ。
2年かけて土地を取得し、1917年開墾開始。
農閑期の農民達の手作業で雑木の生い茂る湿地帯(一部桑畑)を切り開き、掘っては堤防を築き、冬の厳しい寒さや水害など幾多の苦難を乗り越え、1935年完成(前期)に至る。
日本一広大なわさび田の開拓は当時、農閑期の雇用を創設し、同時に犀川の治水工事をも完成させる事となる。
今では散策道の一部となっている小高い丘は、全て掘り出した土や石を積み上げた場所。
現社長は5代目の深澤大輔氏。
名前の由来
八面大王伝説に起因。
今から1200年以上前、大和朝廷は東北討伐を進め、安曇野では住民が朝廷軍に貢物等を強いられていた。
当地を治めていた魏石鬼(ぎしき)八面大王は民の苦しみを見かね、坂上田村麻呂率いる朝廷軍と戦うが、大王は倒されてしまう。
朝廷軍は大王が生き返る事を怖れ、体を分けて埋め、胴体が埋められた塚が農場内にあった事から「大王わさび農場」と名付け、大王を祀る為の神社を建立。

夏季、わさび田を覆う寒冷紗
わさび田を覆う黒いネット。
山間の樹影に育つわさびは「7陰(7 ombres)3陽(3 soleils)」と言われ、直射日光は苦手。
寒冷紗は5月から10月初旬まで掛けられ、流水を15度以下に保ち、根(la racine)や茎(la tige)を熱(la chaleur)から守り、葉焼け(le bronzage)を防ぐ。

美しいわさび田の幾何学模様
une ornementation géométrique
大王わさび農場で一番の見所、わさび田。
土手に沿って作られた曲線(la ligne courbe)と、掛け水のカーブに合わせて微妙に角度を変えながら無数に連なる畝は、見事な幾何学模様を描き出す。
畑人が、わさびの生育に欠かせない水の流れを計算し尽くして作り出した人工美。

「珍百景」ふたつの川
奥に流れる一般河川万水川(よろずいがわ)と、湧水100%の蓼川(たでがわ)、水質が全く違う川が、細長い島を挟んで流れる珍しい風景。
安曇野で最も低いこの地に流れついた2本の川は、この先で合流するが、水温等の違いから、しばらくは混ざる事なく流れ続ける。

湧水を体感出来る親水広場(湧水体験)
北アルプスの雪解け水が地中に染み込み伏流水となり、わさび田に湧き出した真清水。
年間を通してほぼ13度の水温で、毎日120,000トンが湧き出る。
手や足で湧水に触れてみよう。
ニジマス
カジカ
梅花藻
勿忘草

突然変異(アルビノ)のニジマス
黒色のニジマスに混じって泳ぎ回っている黄橙色の魚は、突然変異(la mutation)で色が変わったニジマス。
腹に赤っぽい虹のような帯がニジマスである事の証明。

八面大王の見張台(太陽の石)
「大王わさび農場を見守る"太陽"を表現したい」
二代目深澤勇市の多年にわたる念願。
それが石組みの上にある、大きな荒彫り石(白御影石)。
完成の折、勇市自ら「八面大王の見張台」と名付けた。
北西の丘に立つ「道元さん」の目線が相対している。
※道元さんは彫刻家細川宗英の名作

開拓ゆかりの人
大王わさび農場(旧深澤山葵園)を開墾し、現在の繁栄に導いた先人達のブロンズ像。
左から、
創業者・初代深澤勇市(1886~1941)、同一恵、第二代勇市(本名増夫)、同妻真寿美。
「勇市」は深澤家の世襲名。
作者…初代勇市は小林章、他3体は高島文彦

初代深澤勇市の頌徳記念碑
1915年、犀川の氾濫被害に呆然とする勇市の前に一羽の大鷹が現れ、八面大王様の使いと感じた勇市がわさび田の開墾を決心した事を称えた記念碑。
1940年建立。
記述は深澤勇市が梓川小学校在学中の校長であり、常に熱い魂を吹き込まれた恩師、太田伯一郎氏。

大王神社由緒
782~806年間、安曇平野に繁栄した原住民族の王を、人呼んで魏石鬼八面大王と称した。
後に大王の偉業を顕彰して建てられたのが大王神社。
折しも南方より侵攻しに来た大陸族との間に激烈な攻防戦が繰り広げられ、大王は一族を率いて侵入者を悩ました。
しかし優勢を誇る大陸族の前には遂に捕えられ処刑された。
大王の復活を恐れ、遺骸は分断され、胴体を葬ったのが当大王山。
大王神社 大わらじの由来
巨体であった八面大王の大草鞋。
また、農場開拓の際に履いていた草鞋に感謝を込め奉納するようになった説もある。
旅や畑作業の無事を祈願しており、脚、膝の痛みを和らげると言われる。

湧水はわさび田の中から
わさび田を流れる水は全て、北アルプスに降った雪が伏流水となり大王わさび農場の様々な場所から湧き出した湧水。
1日120,000トン、水温は通年ほぼ一定の13度。
豊かな水は、わさび田の中をゆっくり北に向かい万水川と合流し、犀川、千曲川、信濃川となって270km先の日本海に注ぐ。


日本浮世絵博物館
Le musée japonais de l'ukiyo-e
100,000点(内肉筆浮世絵1,000点)の収蔵品は質・量ともに日本でも有数の浮世絵博物館。
江戸時代松本の豪商だった酒井家5代200年にわたる「酒井コレクション」が中心。
酒井家6代目の酒井平助義明から浮世絵の蒐集を始め、明治維新後、8代目の酒井藤兵衛が東京に酒井好古堂を開業し、浮世絵の学術的研究が子孫に受け継がれ、海外での展覧会も開催された。
そして1982年にその集大成としてこの博物館が開館。
建物は篠原一男の設計。
歌川広重(1797~1858)
歌川国芳(1798~1861)
江戸時代末期を代表する浮世絵師の1人。
画想の豊かさ、斬新なデザイン力、奇想天外なアイデア、確実なデッサン力を持ち、浮世絵の枠にとどまらない広範な魅力を持つ作品を多数生み出した。
渓斎英泉(1791~1848)
1791年に下級武士松本政兵衛茂晴の子として誕生。
教養人であった父からの影響を受けて幼い頃から狩野派の絵画を学び、学究的な一面を持つ人物となった。
英泉は菊川英二宅に居候をしながら浮世絵師を目指す。
美人画の代表的作者であった菊川英山のもとで、上品な作風だった英山風美人画を制作。
また英泉は浮世絵師のキャリアの初期段階から春画を手掛け、多くの優れた春画を制作。
英泉はやがて英山の影響力を脱し、春画で培った妖艶な雰囲気を持ち、実在感ある美人画で一世を風靡し、当時浮世絵界で圧倒的なシェアを誇っていた歌川派の人気絵師、歌川国貞らに負けない人気を獲得。
しかし天保年間、英泉は主に風景画の分野で優れた作品を発表した。
天保の改革の一環として、1843年3月、江戸の町奉行所は英泉ら6名の浮世絵師を呼び出し、風紀を乱す浮世絵を制作しないよう誓約させた後は、一筆庵の名で戯作者として文筆方面の活動が中心となり、1848年8月20日に亡くなる。
英泉はかねてからその妖艶かつ性的感覚を刺激される美人画の作風と、遊蕩に溺れたと伝えられる人生から、江戸末期の退廃的な雰囲気を体現した作家であると見なされていた。
しかし近年、これまでの英泉像は偏ったものであると指摘されるようになり、美人画以外の作品の評価も求められるようになった。
歌川国貞(三代豊国)
葛飾北斎(1760~1849)
江戸時代後期の浮世絵師。
19歳で勝川派の頭領勝川春章に師事し絵師としての活動を始めて以降、1779年から1849年までの70年間に渡って、人間のあらゆる仕草や、花魁・相撲取り・役者などを含む歴史上の人物、富士山・滝・橋などの風景、虫、鳥、草花、建物、仏教道具や妖怪・象・虎・龍などの架空生物、波・風・雨などの自然現象に至るまで森羅万象を描き、生涯に34,000点を超える作品を発表した。
その画業分野も版画(摺物)の他、肉筆浮世絵、黄表紙、読本、狂歌本、絵手本、春画など多岐に渡った。
ありとあらゆるものを描き尽くそうとした北斎は、西洋由来の絵画技術にも大いに興味を示し、銅版画やガラス絵、油絵などの描法を研究し試みた。
北斎の画業は欧州へと波及し、ジャポニスムと呼ばれるブームを巻き起こして19世紀後半のヨーロッパ美術に大きな影響を及ぼした。
化政文化を代表する画家として存命時より高い知名度を持っていたが、1998年にアメリカの雑誌『ライフ』が企画した「この1000年間で最も偉大な業績をあげた世界の100人」に日本人として唯一のランクインを果たしたことで、日本国外での評価の高さを知らしめるとともに、日本国内においても評価が再考されるようになった。
月岡芳年(1839~1892)
歴史絵、美人画、役者絵、風俗画、古典画、合戦絵など多種多様な浮世絵を手がけ、各分野において独特の画風を見せる絵師。
多数の作品があるなかで決して多いとは言えない点数でありながら、衝撃的な無惨絵の描き手としても知られ、「血まみれ芳年」の二つ名でも呼ばれる。
浮世絵が需要を失いつつある時代にあって最も成功した浮世絵師であり、門下からは日本画や洋画で活躍する画家を多く輩出した芳年は、「最後の浮世絵師」と評価されることもある。
昭和時代などは、陰惨な場面を好んで描く絵師というイメージが勝って一般的人気(専門家の評価とは別)の振るわないところがあったが、その後、画業全般が広く知られるようになるに連れて、一般にも再評価される絵師の一人となっている。
歌川芳虎(出没不明)
歌川国芳の門人。
11歳で国芳の門人となり、1830~44年の頃から作画開始。
国芳が得意であった武者絵に秀で、役者絵にも錦昇堂版の役者大首絵などの力作がある。
また美人画シリーズや相撲絵、横浜絵などにおいても活躍しており、幕末の時期において活動的な絵師であった。
1867年のパリ万博では、歌川貞秀らと合作「浮世絵画帳」に加わり江戸美人を描く。
その後も錦絵や版本の挿絵にと幅広く活躍し、1868年には錦絵師番付で貞秀に次いで第2位となり、人気絵師のトップクラスに上っている。
芳虎が最も活躍したのは明治維新前後の目新しい風俗を描いた横浜絵や開化絵の分野で、作品数は多い。
落合芳幾(1833~1904)
歌川国芳の門下で、月岡芳年とは兄弟弟子(芳幾が兄格)。
一時は浮世絵師として芳年と人気を二分する程であったが、新聞人としてまた挿絵画家として新聞の発行にも関わる。