神奈川県
神奈川県 | 横浜市 | 鎌倉市 | 箱根町 | |
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面積 | 2,400㎢ 【43位】 |
437㎢ | 40㎢ | 93㎢ |
人口 | 9,200,000人 【2位】 |
3,700,000人 | 170,000人 | 11,000人 |
人口密度 | 3,800人/㎢ 【3位】 |
8,600人/㎢ | 4,352人/㎢ | 119人/㎢ |
目次
鎌倉
- 鎌倉の歴史
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1180年から1185年にかけて、国内各地で平氏政権に対する反乱が起こった。
鎌倉の市街地は東•北•西の三方を山で囲まれ、南は相模湾に面した天然の要塞(forteresse naturelle)である。
周囲の山々は標高100m~150m程度だが、標高の低い割には急坂やアップダウンの激しい山道が多いとされ、「鎌倉アルプス」とも呼ばれている。 姫路城のような城塞は、16世紀以降に築城され始める。
姫路城→17世紀初期
大阪城→16世紀後期
1063年、源頼義が奥州を平定(pacifier)して鎌倉に帰り、源氏の氏神として出陣の際にご加護を祈願した京都の石清水八幡宮を由比ヶ浜にお祀りしたのが、鶴岡八幡宮の起源。
1180年、頼義の玄孫(孫の孫)である源頼朝が鎌倉入りし、由比ヶ浜の八幡宮を現在の鶴岡八幡宮の所在地に移す。
以後、鶴岡八幡宮を中心に鎌倉の都市計画が進んだ。
1185年、約6年間にも及ぶ治承・寿永の乱が壇ノ浦で決着し、源氏が勝利。
乱の以前、平氏政権は軍事警察権を掌握し多くの知行国を保有していた。
この為、平氏政権に権益を奪われた旧勢力(王家、貴族、寺社)により平氏政権排除が企てられた。
しかし、旧勢力に平氏政権を排除する軍事力は無かった。
そこで武士階級に力を借り、平家を滅亡に追いこんだ。
平家を滅ぼした源氏は鎌倉に幕府を開き、1192年、源頼朝は征夷大将軍に任命された。 - 1180年 家臣(御家人)を統制する「侍所」設置 1183年 院庁(いんのちょう)から頼朝の東国支配が承認 1184年 主要政治機関(公文所・問注所)設置 1185年 守護・地頭を設置し、全国の土地管理権を掌握 1189年 奥州平定 1192年 征夷大将軍に任命
- 鎌倉幕府始期
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鎌倉幕府始期については3つの説がある。
- 1183年 東国支配権の承認を得た
- 1185年 守護・地頭設置権を認められた
- 1192年 源頼朝征夷大将軍就任
- 武士
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地方では豪族が開墾した私有地を領地として広げて勢力を伸ばし、朝廷の武官や貴族の警備を通して、中央の武官と交流を結ぶようになり、武士として家来をまとめて武士団を作って勢力を強めていった。
関東では平将門、瀬戸内では藤原純友が武士団を率いて反乱を起こした。
関東を中心に興った源氏は、朝廷に取り入った関西中心の平氏を壇ノ浦で1185年に破り、源氏を中心とした武士政権が樹立された。
- 鎌倉仏教
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平安後期から鎌倉時代にかけて日本は戦乱の世にあり、社会不安の中で人々は心のよりどころ(support moral)を求めていた。それ以前の「旧仏教」は、厳しい戒律(le précepte)や学問(savoir)や寄進(don)を必要とし、武士や庶民には難解だった。
鎌倉仏教は、誰でも悟りに至ることが出来るという前提のもと、民衆に広く親しまれるようになった。
鶴岡八幡宮
- 1063年に京都から由比ヶ浜へ引っ越し
- 1180年に由比ヶ浜から現地へ引っ越し
- 質実剛健な武士の精神(l'esprit austère)が広がる
- 1828年再建
- 武運(un sort des armes)の神様
- 歴史
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源頼義が奥州平定に向かう際、京都の石清水八幡宮に加護を祈願した。1063年、奥州平定後、鎌倉に帰った頼義は、石清水八幡宮を由比ガ浜に祀った。これが鶴岡八幡宮の起源。
その後、源氏再興の旗上げをした源頼朝は1180年、鎌倉に入るとすぐに由比ガ浜の八幡宮を現在の地に遷し、鎌倉の街づくりの中心とした。
以降、当宮は武家の精神のよりどころとなり、国家鎮護の神としての信仰は全国に広まった。当宮への信仰を背景に鎌倉を中心として興った質実剛健の気風(L’esprit austère)は、その後「武士道」に代表される日本人の精神性の基調となった。
現在の御本殿は、1828年、江戸幕府11代将軍徳川家斉の造営による代表的な江戸建築で、若宮とともに国の重要文化財に指定されている。
鶴岡八幡宮が京都の石清水八幡宮を由比ヶ浜に祀ったように、八幡宮の移動の際に、鳩がその道案内をしたと言う説が残っている。 - 段葛(だんかずら)
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鶴岡八幡宮参道、ニの鳥居から八幡宮までの車道より一段高い歩道のこと。
終着点には三の鳥居があり、八幡宮境内へ至る。
鎌倉時代、源頼朝などの武士が鎌倉に住むにつれて山を削り、平地を増やして屋敷を建てた。
その為山の保水力が低下し、雨のたびに若宮大路に土砂や雨水が流れ込み、道がぬかるんで歩きづらくなった為、道から一段高い道を建設したのが段葛。
また、鎌倉幕府が攻め込まれるのを防ぐ為に、一の鳥居から八幡宮に向かうにつれて道幅が徐々に狭くなっており、遠近法によって実際の距離よりも長く見える。
鳥居は1923年の関東大震災で倒壊し、1936年に朱塗り鉄筋コンクリート造で再建。 - 本宮(上宮)
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応神天皇…第15代天皇。
比売神(ひめがみ)…神道の女神。
神功皇后(じんぐうこうごう)…応神天皇の母。
八幡三神を祀る。八幡神は武運の神。八幡宮は全国に44,000社あり、大分県の宇佐神宮を総本山とする。
随身門には随身(=平安時代以降、貴人護衛にあたった武人)が鎮座。 - 丸山稲荷社
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商売繁盛のご利益。
当宮で一番古い室町時代中期(15世紀)の建物。 - 宇佐神宮遙拝所
- 八幡宮の総本宮である大分県の宇佐八幡宮をここから参拝する。
- 舞殿
- 静御前が義経を慕い、心を込めて舞った若宮廻廊跡に建ち、下拝殿とも言う。
- 湘南
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10kmの海岸線を有する2,450㎢の相模湾を望むビーチ。
サーフィン(le surf)やヨット(la voile)も人気。
高徳院
- 歴史
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高徳院は国宝銅造阿弥陀如来坐像を擁する鎌倉のシンボル的存在だが、創建についての詳しい資料が乏しく(Il ne reste pas assez de documents)、明確な建立年は不明。
一説によると(selon une thèse)1252年に大仏造立が開始されたと言われている。
元は密教系の僧が住職を務め、後に臨済宗に属し、江戸時代以降、浄土宗の寺社となり、この時期から「高徳院」と称するようになった。
大仏は当初大仏殿の中に安置されていたが、1334年と1369年の台風で倒壊。
以降、大仏殿の再建は行われなかった。露座となり荒廃(se delabrer)が進んだ大仏を江戸中期に僧・祐天が修復にあたった。
大仏は高さ11m(台座を含めると13m)、重量120t
最初は木造で、後に中国から銅貨を輸入し、青銅に加工して使用。 - 阿弥陀如来
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西方極楽浄土で、死者を極楽浄土へと導く仏。
浄土とは、仏の住む国で、一切の煩悩や穢れが無い世界。
高徳院の本尊。国宝銅造阿弥陀如来坐像は、1252年から10年かけて造立。
制作には、僧浄光が勧進した浄財が当てられたという。
尊像を収めていた仏殿は、1334年と1369年に大風で損壊し、15世紀以後、同仏殿が再建された形跡は認められない。
台座を含む総高約13.4m
仏身高約11.3m
重量約121t
正式名 | 大異山 高徳院 清浄泉寺 |
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宗派 | 浄土宗 |
本尊 | 阿弥陀如来 |
創建年 | 不詳 |
開基 | 不詳 |
- 三十二相八十種好
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仏の姿の32の特徴を表す。
見てすぐわかる32相と、微細な特徴である80種好を併せたもの。
宗教的な理想を表す。 - 三十二相
- 足下二輪相(そくげにりんそう)
- 足裏に輪形の相が現れている。仏足石。
- 手足指縵網相(しゅそくまんもうそう)
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手足の各指の間に、鳥の水かきのような金色の膜がある(Il a les mains palmée)。
厳しい修行で泳いだため。衆生を救い上げる。 - 毛上向相(もうじょうこうそう)
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体の全ての毛の先端が上になびき、右巻き。
螺髪は昔インドの階級の高い人たちの髪型に由来。 - 丈光相(じょうこうそう)
- 後光。
- 白毫相(びゃくごうそう)
- 眉間に右巻きの白毛があり、光明を放ち世界を照らす(pour éclairer le monde)。
- 八十種好
- 福耳
長谷寺
正式名 | 海光山 慈照院 長谷寺 |
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宗旨 | 浄土宗 |
宗派 | 浄土宗系単立 |
本尊 | 十一面観音 |
創建年 | 736年 |
開基 | 藤原房前 |
開山 | 徳道上人 |
- 概要
- 721年、僧・徳道が楠の大木から2体の十一面観音を造り、その1体を本尊として大和(奈良県)に長谷寺を建立した。そしてもう1体は、衆生(しゅじょう)救済(=すべての生き物)の誓願が込められ、海中へと奉じられた。15年後の736年、相模国の長井沖(現・横須賀市長井=三浦半島)に漂着し、大和長谷寺の開基・藤原房前(ふささき=藤原鎌足の孫)によって尊像は鎌倉に安置し、長谷寺が開かれた。本尊の十一面観音像は木彫仏としては日本最大の高さ9.18m。団体はガイドを除いて30名以上で適用。
- 本堂(観音堂)
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本尊である十一面観世音菩薩像について、721年、大和(奈良県)長谷寺の開山である徳道上人の本願に基づき、稽文會(けいもんえ)、稽首勲(けいしゅくん)と名乗るふたりの仏師(不空羂索観音(ふくうけんさく/ふくうけんじゃく)と地蔵菩薩の応化身)により楠の巨大な霊木から二体の観音像が三日三晩にして造顕された。そのうちの一体が大和長谷寺お本尊となり、残る一体は有縁の地における衆生済度の誓願が込められ、開眼供養を修した行基菩薩によって海中へ奉じられた。
その後、736年に至り、尊像は相模国の長井浦(横須賀市長井)の洋上に忽然と顕れ、その旨を受けた大和長谷寺の開基藤原房前(藤原鎌足の孫)によって尊像は鎌倉へ遷座され、当山開創の礎となった。錫杖(しゃくじょう)を右手に執り、岩座(金剛宝盤石)に立つ尊容は長谷寺に祀られる十一面観音像特有の姿として「長谷寺式」と呼ばれる。 - 阿弥陀堂
- 長谷誓願寺(現亡)の旧本尊という由緒を持つ当山の阿弥陀如来坐像は、伝承によれば鎌倉幕府所代将軍源頼朝公の厄災消除を祈願し造立された尊像であるといわれ、後年「厄除阿弥陀」として諸方からの信仰をあつめた。上品上生の印相を示す丈六の阿弥陀像は鎌倉でも稀有な存在と言え、鎌倉六阿弥陀のひとつにも数えられる。
- 地蔵堂
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観音信仰ならびに、日本における庶民信仰の代表的阿なひとつが地蔵信仰。
当山では観音堂内に祀られていた「延命地蔵尊」(現観音ミュージアム収蔵)に加え、「福壽地蔵」を祀る地蔵堂、及び周囲の千体地蔵尊をもって地蔵菩薩の霊域とし、諸霊の供養としている。 - 大黒堂
- 1412年の銘を持つ神奈川県でも最古の尊像として、現在は観音ミュージアムに収蔵されている。これに代わり、堂内には「出世開運授け大黒天」や「さわり大黒」が祀られ、鎌倉、江の島七福神巡りの一つとなっている。
- 弁天堂、弁天窟
- 当山の弁才天像は、弘法大師が廻国修行の折、当山の岩窟に参籠し感得して刻んだ尊像。江戸時代には「出世弁才天」の名で知られた。現在その尊像は観音ミュージアムに収蔵され、代わりに福徳弁才天が祀られている。また弁天窟の壁画には、弁財天とその眷族である十六童子が刻出されている。
- 稲荷社(かきがら稲荷)
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観音像の渡海縁起にまつわる伝承によると、海を漂う観音像は尊体に付着した「かきがら」の導きにより当地へ流れ着いたと伝えられている。
祭神は当初「荒神」であったと伝えられているが、後年、稲荷社として再興された当社は、観音像の漂着した6月18日を御縁日と定めている。 - 経蔵(転輪蔵)
- 内部に回転式の書架を備える経蔵を「転輪蔵」と呼ぶ。書架を一回転させることで、中に納められている一切経(大蔵経)(soutra)をすべて読踊した功徳(bienfait)が得られるといい、また堂内にはマニ車が十八基設置されている。人々が書き終えた写経も経蔵内に納められている。
- 鐘楼
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当山の古鐘は1264年の銘を持ち、鎌倉でも常楽寺、建長寺に次ぎ三番目に古い梵鐘。また、「長谷寺」の寺号が確認できる当山最古の什宝でもあるため、現在は観音ミュージアムに移管(常設展示)。
ちなみに、現在の梵鐘は1984年に新鋳されたもので、歌人佐佐木幸綱の短歌が寄せられている。 - 写経(copier des soutras)
- 日本最古の写経は673年、奈良の川原寺にて行われたという記録が「日本書紀」に残っている。奈良時代には、国立の写経所で国家的に多量の良い写経が作られた。鎌倉時代以降は、印刷技術の向上により実用面の大規模な写経は行われなくなったが、信仰のため仏道修行としての写経は続けられ、今日に至っている。
- 千手観音
- 観音の王。千本の手と掌に目が付いている。手は多くの人々の救済。掌の目は人々を教え導く知を表す。
- 宇賀神
- 日本古来の神。雨を降らし、穀物を育て、我々に食べ物の恵みをもたらす神様。蛇の姿をしており、水と富みのご利益から弁財天と一体の神として祀られている。
仏足石 | 釈迦の足跡を石に刻み、信仰の対象としたもの。 | |||
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足下安平立相 (そくげあんびょうりゅうそう) |
足が大きく平らで、土踏まずが無い。 | |||
足下二輪相 (そくげにりんそう) |
足の中央に二重の輪が描かれ、そこから放射状に線が画かれる。 | |||
長指相 (ちょうしそう) |
手の指同様、足の指も長い。 | |||
手足指網相 (しゅそくしまんそう) |
指と指の間に水かきの様な網がある。魚の絵で網を表現。 |
円覚寺
正式名 | 瑞鹿山 円覚興聖禅寺 |
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宗旨 | 臨済宗 |
宗派 | 円覚寺派 |
寺格 | 大本山 鎌倉五山第二位 |
本尊 | 宝冠釈迦如来 |
創建年 | 1282年 |
開基 | 北条時宗 |
開山 | 無学祖元 |
- 概要
- 下り列車進行方向前寄りの改札(東口)出てすぐ。 1282年、北条時宗が中国から無学祖元禅師を招いて元寇の戦いで亡くなった敵味方の諸霊位を供養する為に創建。
建長寺
正式名 | 巨福山 建長興國禪寺 |
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宗派 | 臨済宗建長寺派 |
寺格 | 大本山 鎌倉五山第一位 |
本尊 | 地蔵菩薩 |
創建年 | 1253年 |
開基 | 北条時頼 |
開山 | 蘭渓道隆 |
- 概要
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鎌倉幕府第5代執権北条時頼によって1253年に創建された日本最初の禅宗寺院。
当時日本は1221年の承久の乱を経て北条氏の権力が安定。
京都にある朝廷の全国支配力は弱まり、政治的には鎌倉が事実上日本の首府となっていた。
境内は元々「地獄ヶ谷」と呼ばれる処刑場(lieu d’exécution)で、地蔵菩薩を本尊とする伽羅陀山心平寺が建っていた。
その名残から、禅宗寺院の本尊として一般的な釈迦如来ではなく、地蔵菩薩を祀る。
当時日本では禅宗と他宗との兼学である寺院が多い中、建長寺は中国宋朝風の臨済禅だけを修行する専門道場として開かれた。
1293年に発生した鎌倉大地震により建造物の大半が倒壊。
再建を試みるも、度重なる火災で創建当初の建物を失った。
鎌倉時代末期には修復費用獲得の為、幕府公認で元へ貿易船(寺社造営料唐船)が派遣され、建長寺船と呼ばれた。
開山の蘭渓道隆(らんけいどうりゅう)は、中国の禅僧で、総門・三門・仏殿・法堂・方丈が一直線に連なる境内は中国禅宗様式に倣う。
山門は1775年の上棟で、2005年に重要文化財に指定。三間一戸の二重門で、上層屋根はこけら葺き形銅板葺きとする。禅宗様建築は一般に木枠の細いのを特色とするが、この門は柱などの各種部材が太く豪快であるのが特徴。この門をくぐることによってあらゆる執着心(attachement)から解き放たれる。
- 「林禅下天」
※入場券面に記載 -
天下禅林...
「人材を広く天下に求め育成する禅寺」との意。
西の外門(北鎌倉側門)に掲げ我が国最初の禅宗寺院で鎌倉五山第一位の建長寺を象徴する語。 - 総門(巨福門・こふくもん)
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受付前の門。
1783年に建立された京都の般舟三昧院(はんじゅうざんまいいん)の門を1940円に移築。
額の「巨福山」は「大きな福をもたらす寺」の意。 - 三門【重要文化財】
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三解脱門の略。
楼上(門の上部)に釈迦如来・十六羅漢・五百羅漢等を安置し、その下を通ると心が清浄になる。
1775年再建。 - 梵鐘【国宝】
- 1255年鋳造。建長寺創建当時から遺る貴重な鐘。高さ2.1m。
- 柏槇(びゃくしん)
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和名「イブキ」(genévrier)
【かながわ銘木百選鎌倉市指定保存樹木】
蘭渓道隆が中国から持ってきた種子を建長寺創建の際に蒔いたもの。
樹高13m、胸囲6.5m、樹齢約760年 - 仏殿【重要文化財】
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建長寺本尊、地蔵菩薩(天国から地獄に至るまで、すべての生物を救い、成仏させると誓う菩薩)を安置。
現在の建物は4代目に当たり、1647年に東京の増上寺より徳川二代将軍秀忠夫人崇源院(お江の方)の御霊屋を移築したもの。
もともと霊廟建築として造られた為、一般的な禅宗の仏殿に見られる入母屋造ではなく、寄棟造である。
僧侶が儀式の際に使用する靴が収納されている。
中央の木造地蔵菩薩坐像は室町時代(14世紀)制作。 - 法堂(はっとう)【重要文化財】
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昔は388人の僧侶がいて、全員がこの法堂で住職の説法を聞いた。
現在は法要、講演などに使われており、修行僧は西来庵(せいらいあん)で修行している。
建物は1814年に再建。
関東最大の法堂。
迷いの中から救い悟りを得るために偉大な働きを持つ観音、千手観音を本尊とする。
天井画は小泉淳作(1924-2012)の雲龍図で天井に直接描かれたものではなく、別に制作された絵を掲げた。
氏は神奈川県鎌倉市生まれで、建長寺の雲龍図は2000年に製作された。
釈迦苦行像は、パキスタンから寄贈されたレプリカ。 - 唐門【重要文化財】
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方丈(龍王殿)の正門。
もとは、崇源院御霊屋(現仏殿)の唐門で仏殿同様1647年に移築されたもの。 - 方丈(龍王殿)/庭園【名勝史跡】
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昔、住職が居住する場所だった。
1732年に建てられ、元は皇室の御位牌を安置する場所だった。
総門同様1940年に京都の般舟三昧院の本殿を移設したもの。
宝冠釈迦如来が祀られている。 - 得月楼
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月の景趣を十分に眺めるという意味。
池辺に2階の楼閣形式で作成された中国の園林を模して日本的な景観を生み出した。
玄関ともども2003年の建長寺創建750年にあたって約590年ぶりに復興された。 - 虫塚
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2015年6月4日(虫の日)に養老孟司氏による建立。
命を奪われた昆虫を供養する為の慰霊碑。
デザインは建築家の隈研吾氏。 - 半僧坊
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建長寺の鎮守「半僧坊大権現」を祀る御堂。
1890年に当時の住持が静岡県の方広寺から勧請した神で、火除けや招福に利益がある。
虫塚から半僧坊までは約200段の階段を登る。
さらに半僧坊から約150段の急な山道を登ると、富士見台の展望台へたどり着く。
- 承久の乱
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平安時代末期の保元の乱、平治の乱により貴族階級の衰退と武士階級の台頭があり、1185年に初めての武家政権となる鎌倉幕府が成立。
東日本を勢力下に置いた鎌倉幕府と西日本の支配を保った朝廷による二元統治となり、朝廷は新興の武家政権への反感が募った。しかし、朝廷の身内ともいえる清和天皇の血を引く源氏将軍が鎌倉幕府を率いている間は武力行使には至らなかった。
1203年、第2代将軍源頼家が北条時政に幽閉され翌年暗殺、第3代将軍源実朝も1219年に鶴岡八幡宮の前で頼家の子公暁に暗殺された。これにより、三代続いた源氏将軍が断絶し、北条氏が執権職にもかかわらず鎌倉幕府の実権を握った。
朝廷は武家政権打倒と日本全土統治回復を目指すため、挙兵するが幕府に鎮圧される。
江ノ島
江ノ島 | 藤沢市 | |
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面積 | 約0.4㎢ | 約70㎢ |
人口 | 約354人 | 約440,000人 |
人口密度 | 860人/㎢ | 6,365人/㎢ |
- 江ノ島の歴史
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神奈川県藤沢市にある湘南海岸から相模湾へと突き出た陸繋島。
海岸線長4km
標高60m
古来は引き潮(la marée descendante)の時のみ対岸と地続きとなって歩いて渡ることが出来たが、1923年の関東大震災で島全体が隆起(se soulever)して以降は、地続き傾向にある。
古来より修行の地として、奈良時代に役小角、平安時代に空海、鎌倉時代に一遍、江戸時代には木喰が参籠して修行に励んだ。1182年に源頼朝の祈願により僧文覚(もんがく)が弁才天を勧進し、頼朝が鳥居を奉納したことをきっかけに、代々の将軍や御家人が参拝した。鎌倉時代以降も、各時代の為政者から聖域として保護され、参詣された。弁才天は水の神という性格を有し、歌舞音曲の守護神とされていた為、歌舞伎役者や音楽家なども多数参拝した。
江戸時代後期には江戸庶民の行楽地(le site touristique)として栄え、寺社参拝の建前の下、景勝地を訪ね、名物料理を味わう等の側面が強くなった。明治維新の廃仏毀釈により、与願寺は宗像三女神を祀る江島神社となり、宿坊は一般旅館へと転業した。1887年の鉄道開通、1902年の江ノ電開通により、鎌倉と江ノ島を結ぶルートが確立し、修学旅行などで賑わうようになった。大正時代には新たに児玉神社が祀られた。1923年の関東大震災により島全体が2m隆起し、島内のほとんどの建物が倒壊した。1964年の東京オリンピックでヨット競技(le nautisme=水上スポーツ特にヨット)会場となり、島の東部を大幅に埋め立て、ヨットハーバー(port de plaisance)湘南港を建設し、これにより江ノ島の陸地面積は1.5倍ほどに拡大した。
江ノ島周囲では磯釣り(pêche de rivage)、潜水(ダイビング)(plongée)などが行われる。
イセエビ、サザエ、アワビが獲れ、ワカメ養殖も行われる。
- 江島神社
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江戸時代までは弁才天を祀る。
明治の神仏分離後、宗像三女神を祀る。
島の西方「奥津宮」=多紀理比賣命(タキリビメ)
中央「中津宮」=市寸島比賣命(イチキシマヒメ)
北方「辺津宮」=田寸津比賣命(タヅキヒメ)
552年、神託に基づき、欽明天皇の勅命により、江ノ島南の洞窟に宮を建てたのが起源。
神仏習合により金亀山与願寺と称する寺となった。
1868年の廃仏毀釈により三重塔の他、多くの仏教施設や仏像等が破壊された。
1872年には、仏式を廃して神社となり「江島神社」へ改称。同時に僧侶は全員僧籍を離れ神職となり、宿坊は旅館「岩本楼」と改称。
- 天女と五頭龍
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昔、鎌倉の山奥にある底なし沼(le marécage sans fond)に五頭龍が住み着き、子供を生贄(le sacrifice)に取る等して村人を苦しめた。
ある時、海上に密雲が垂れ込め、天地が激しく揺れ動き、天女が現れた(Les nuages sont bas sur mer, le ciel et la terre ont ballotté, et une nymphe céleste a apparu.)。
雲が晴れると海上に忽然とひとつの島が出来ていた。
これが現在の江の島。
美しい天女に五頭龍は結婚を申し込むが、天女は五頭龍の悪行が止むまではと断る。
その後、五頭龍は改心(s’amender)して結婚。この伝説の天女が江の島に祀られている弁才天。
約3,000万年前(il y a trente millions ans)、神奈川県下は海底で、江の島付近は静かな海であった為、砂や泥(boue)が厚く積もった(s’accumuler)【葉山層】。
約2,500万年前に葉山層が隆起(se soulever)し、丹沢から江の島を通り、三浦半島、房総半島まで続く長い山脈(chaîne de montagnes)の様になった。
その後、葉山層は削られ、その上の次々と新しい地層(strate)が積もった。
岩屋も葉山層から出来ている。
江の島が海面に姿を現したのは、約7~8万年前。
- 亀石(亀甲石)
- 1806年、弁秀堂という人が弁財天を信奉して金光明最勝王経を写経しここへ納め、上に置く石を探していたところ、亀の形をした石を発見したので江の島に奉納した。
- 山二つ
- 江の島をちょうど二分する境となっていることから「山ふたつ」と称される。断層に沿って浸食された海食洞が崩落したことで「山ふたつ」が出来たとも言われている。赤茶色(strate rousse)の地層は関東ローム層で、箱根山や富士山の火山灰(des cendres volcaniques)が堆積したもの。
- 江島神社 中津宮
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江の島島内三箇所のお宮(奥津宮、中津宮、辺津宮)を総称して江島神社という。
中津宮は853年創建で、現在の社殿は1996年に大改修されたもの。境内には、江戸時代に歌舞伎関係者により奉納された石灯篭や梅桜などがある。
当社は日本三大弁財天のひとつで、芸能を司る妙音天女としても崇敬された。
- 宝厳寺・竹生島神社(滋賀県竹生島)
- 江島神社(神奈川県江の島)
- 大願寺・厳島神社(広島県厳島)
- ※日本三大弁財天
- 江の島岩屋
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長い歳月を経て波の浸食でできた岩屋は、第一岩屋(奥行152m)と第二岩屋(奥行56m)から成る。
1971年以来、長期閉鎖されていたが、周辺施設を一新し、1993年4月から再開されている。
古くから信仰の対象にもされていた岩屋。弘法大師が訪れた際には弁才天がその姿を現し、また源頼朝が戦勝祈願に訪れたとも言われている。
洞内では、様々な展示物から江の島が歩んできた歴史と文化の一端を見ることができる。
また、岩屋へ続く全長128mの岩屋橋からは相模湾とその向こうに広がる富士、箱根、伊豆方面の景観が一望でき、開放感を満喫できる。
- 江の島(パンフレット記載)
- 江島神社御鎮座記念龍燈籠
- 江の島は弁財天と五頭龍の伝説がある島。この龍燈籠は「江島縁起」による江の島湧出の時から数え1450年を記念に2001年に建てられた。
- 江の島弁天橋(橋長389m)
- 初めて江の島に木橋がかかったのは1891年のこと。それまでは潮が満ちてくると、片瀬浜から江の島へ渡るには舟か人足の背負いに頼るしかなかった。車道の江の島大橋(橋長324m)は、1964年に開催された東京オリンピックに合わせて造られた。
- モース記念碑
- 大森貝塚の発見者として知られるエドワード・S・モース博士は江の島に東洋初の臨海実験所を開設し、わずか1ヶ月の滞在で多くの海洋生物を研究した。江の島は、我が国の海洋生物学の発祥の地とも言える。
- 江の島ヨットハーバー
- 第18回オリンピック競技大会(1964/東京)のヨット競技が開催された際に造られた日本初めての競技用ハーバー。東京2020オリンピック競技大会において再びセーリング競技が開催された。江の島ヨットハーバーには約1,000隻のヨットが収容されており、2014年6月に新しい江の島湘南港ヨットハウスも完成し、セーリングを楽しむ人々で賑わっている。センタープロムナードには、さざえ島やタイドプールなどの親水施設が整備され、誰もが気軽に海を感じることができる場所となっている。
- 青銅の鳥居
- 江の島の入り口に建つ青銅の鳥居は、市指定文化財です。1821年に再建されたものだが、両柱には数多くの寄進者名が彫られ江戸時代の信仰の広さを今に伝えている。掛けられた額に記されているのは江島大明神。鳥居をくぐると土産物屋さんが立ち並ぶ賑やかな参道に続く。道幅は昔も今も変わっていない。
- 永野泉山の句碑
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「住みなれて 居てもすずしや 島の月」(恵比寿屋)
「明治子に もどることしや いわひきぬ」(辺津宮参道)
島内に2つの句碑がある。明治期の江の島俳壇の中心人物。 - 旧岩本院(岩本楼)
- 江戸時代までは岩本院と言われ、弁天社の本宮をあずかった一山の総別当とも言われる由緒ある院だった。弁天信仰が盛んだった江戸時代には、勅使、将軍、大名などの宿泊所として栄えた。ちなみに歌舞伎の白浪五人男に登場する弁天小僧は、岩本院の稚児がモデルであると言われている。
- 杉山検校の墓
- 杉山検校は、本名を杉山和一という江戸時代の鍼師。五代将軍綱吉の病気を治して関東総検校の地位を得たが、その時使った管鍼術は江の島弁財天から授かったと伝えられる。お札に三重の塔を建てるなど弁財天とは縁の深い人物。
- ①福石/②江の島弁財天道標
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①ここで石に躓き転んだ盲目の杉山和一は、その時偶然に拾った竹筒に松葉が入っていたことから管鍼術を考案して、後に関東総検校にまで出世した。以後、ここで物を拾うと幸運を授かると伝えられ、福石と呼ばれるようになった。
②石柱は、和一が建てた江の島弁財天で道標。 - 江島神社(辺津宮)
- 島内にある3つの宮=辺津宮、中津宮、奥津宮を総称して江島神社と呼び、それぞれの宮には、海の守護神である女神が祀られている。辺津宮は、田寸津比売命(タギツヒメノミコト)が祀られた1206年に僧良真が荘厳な社殿に遷宮したものだが、現在の社殿は1976年に改修されたもの。
- 奉安殿
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裸弁財天(妙音弁財天)、八臂(はっぴ)弁財天
江の島弁財天は、安芸の宮島、近江の竹生島と並び、日本三大弁財天の一つに数えられるほか、七福神の紅一点としても人々の信仰を集めている。
鎌倉時代には戦勝祈願(八臂像)、江戸時代から芸能、音曲上達祈願(二臂像)と信仰目的が変わってきた。奉安殿は2015年に改修。 - 八坂神社
- 八坂神社や江島神社の境内社だが、京都の八坂神社と同様、祇園精舎の守護神牛頭天王を祀る社。毎年7月中旬に行われる神幸祭(江の島天王祭)は、八坂神社と腰越の小動神社の神輿が、年一回、海上渡御を行う勇壮な祭りで、神奈川の祭り50選にも選ばれている。現在の社は江島神社御鎮座1450年記念事業の一環として2001年に改修された。
- 宋国伝来の古碑(江の島霊迹建寺の碑)
- 将軍実朝の命を受けて、1204年に仏教使節として宋国に渡った僧良真は、慶仁禅師に師事して我が国に法燈を伝えた。帰国の際に禅師から授かった碑石を建立したものが霊迹建寺の碑と伝えられている。
- 沼田頼輔の歌碑
- 「さながらに 生けるが如く 見まつりぬ 御神ながらも 肌ゆたかなり」宋国伝来の古碑の隣に建つこの碑には、沼田頼輔が裸弁財天の美しさを讃えた歌が刻まれている。与謝野晶子の詠んだ長谷大仏美男讃歌と好一対をなしていると評されている。
- ①児玉神社/②後藤新平の詩碑
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①台湾総督を経て日露戦争で日本を勝利に導いた、児玉源太郎を祀った神社で、1921年の創建以来、勝運の神として仰がれてきた。社殿は台湾から贈られたヒノキで造られており、鳥居も狛犬も台湾の石でできている。また、設計は寺社建築の第一人者、伊藤忠太博士によるもので、境内には山県有朋の歌碑や爾霊山(203高地)の石などがある。
②後藤新平は、児玉源太郎に用いられて台湾総督府の民政長官を務めた。境内に詩碑がある。 - 江島神社(中津宮)
- 市寸島比売命(イチキシマヒメノミコト)を祀っている中津宮は、慈覚大師が853年に創建。1689年に再建。現在の社殿は1996年9月に大改修を終えた。江戸歌舞伎中村座、市村座から寄進された石燈篭など、当時の江の島詣での盛況が伺える。2011年に正面両袖に四季を物語る透板欄間塀、また神域に水琴窟を造り一層神厳さを増した。
- ①不老門再建記念碑/②古帳庵の句碑/③間宮霞軒の句碑
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①本来はこの場所に不老門があったが現存しておらず、1861年の再建記念碑だけが残る。
②「いざここに とまりてきかん ほととぎす」古帳庵
「ふた親に みせたしかつお 生きている」古帳女
③「さし潮の 香を抱く 島の霞かな」江島神社奉納句会を主催するなど、江の島俳壇の隆盛に寄与した間宮霞軒の句碑。 - 江の島サムエル・コッキング苑/江の島シーキャンドル(展望灯台)
- 国際交流をテーマに藤沢市の姉妹友好都市コーナーが設けられている庭園。苑内には南洋植物をはじめ四季折々の花が植えられている。また、高さ59.8m、海抜119.6mの展望灯台からは、南に大島、西に富士山、東に三浦半島を望むことができる。
- 江の島大師
- 1993年5月に創建された鹿児島の最福寺(高野山真言宗)の別院。本堂の赤不動像は高さ6m。素晴らしい中国刺繍仏画が展示されている。庭にはカルガモが飛来する睡蓮の池もあり、散歩できる。
- 福島漁村の句碑
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「貝がらも 桜の名あり 島の春」
これは、漁村が経営していた江の島館跡地の一隅に建つ句碑。 - 一遍上人成就水道
- 飲料水に窮する島民を助ける為に一遍上人が掘り当てた井戸と伝えられ、今も水をたたえている。(現在は周辺が民有地となっている為、見学不可)
- 群猿奉賽像庚申塔
- 奥津宮に向かう道の左手に建つ庚申塔は、市重要文化財に指定されている珍しい石塔。四面に彫り出された猿は全部で36匹。烏帽子姿で扇をかざして舞う猿や綱渡りをする猿、棒乗りをする猿などで愉快。塔の下部には数匹の蛇が巻き付いている。
- 伝源頼朝寄進の鳥居
- 吾妻鏡によれば「頼朝は1182年奥州平泉の藤原秀衡を調伏する為、京都高尾神護寺の文覚上人に命じて弁財天を岩屋に勧請し、参詣の際には鳥居を寄進しました」とある。
- 山田検校銅像・顕彰碑
- 山田流箏曲の開祖、山田検校の偉業を讃え、百年忌にあたって像と碑を建てて顕彰したもの。撰文は幸田成行(露伴)、書は小野鵞堂の手により、1917年に建立された。像はしばらく台座だけの時期があったが、2004年に復元された。
- 江島神社(奥津宮)/八方睨みの亀
- 多紀理比売命(タギリヒメノミコト)を祀る奥津宮は、江戸時代まで本宮御旅所(おたびしょ)といい、岩屋の御本尊を奥津宮に移し、4月~10月の間台風等で岩屋内に波が入り込み本尊が流出するのを避けていた。拝殿の天井画「八方睨みの亀」は江戸時代の酒井抱一画で特に有名。2011年に御社殿を全面的に改修した。
- 高木蒼梧の句碑
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「夏富士や 晩籟(ばんらい)神を 鎮しむる」
春の句が多い江の島の中では珍しい夏の句として有名。 - ①龍恋の鐘/②曾禰(そね)荒助の碑
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①この鐘は、江島縁起「天女と五頭龍伝説」の恋物語にちなんで建てられたもので、その伝説にあやかり、多くの人が鐘を鳴らしに訪れる。
②日露戦争当時の大蔵大臣を務めた曾禰荒助の記念碑がある。 - ①芭蕉の句碑/②服部南郭の詩碑
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①「疑ふな潮の花も浦の春」御岩屋道通りを降り稚児ヶ淵を見下ろす踊り場の右から2番目が芭蕉の句碑。
②服部南郭は京都に生まれて、江戸に出て荻生徂徠(そらい)の門に学んだ詩文で有名な人物。碑には、「石壁に題す」という七言絶句が刻まれている。 - ①稚児ヶ淵(ちごがふち)/②永瀬覇天朗の句碑
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①稚児ヶ淵の名は、鎌倉相承院の稚児白菊がこの淵に投身したことに由来する。ここから眺める晴れた日の夕景は美しく、神奈川の景勝50選にも指定されている。
②海を見下ろす場所には、覇天朗の句碑が建てられている。
「桟橋に 波戦える 時雨かな」 - ①江の島岩屋/②与謝野晶子の歌碑
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①長い歳月を経て波の浸食でできた岩屋は、第一岩屋(奥行152m)と第二岩屋(奥行56m)から成る。洞内には、歴史的、民俗学的にも大変貴重な文化遺産でもある石造物が神秘的な照明で演出され、江の島の浮世絵や龍神伝説に基づくオブジェの展示などがある。また、全長128mの橋からは相模湾とその向こうに広がる富士山の景色が一望でき、開放感を満喫できる。
②洞内には江の島を詠んだ与謝野晶子の歌碑がある。
「沖つ風 吹けばまたたく 蝋の灯に 志づく散るなり 江の島の洞」 - ①寂光山龍口寺/②龍の口刑場跡/③仏舎利塔
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①日法上人が建立した日蓮宗門随一の霊跡寺院。境内の奥には1910年建立の五重の塔がそびえている。大本堂、大客殿、五重塔はみな総ケヤキ造り。
②立正安国論を唱え幕府批判をしたことにより裁判を経ずに処刑されそうになったが、役人が刀を振り下ろそうとした時雷鳴轟き光り物が来襲、日蓮を救った。土牢で夜明けを待ち土佐へ流された。毎年9月12日には龍口法難会が盛大に行われる。
③日蓮聖人法難700年を記念して日本山妙法寺より寄進されたパゴダ型の白亜の塔。なかにはお釈迦様の骨が奉安されている。ここは、江の島全景が眺められる景勝地でもある。
箱根
- 箱根町
-
東海道(五十三次=約500km)の要衝(nœud de communication)であり、箱根峠の麓(au bas d'un col)には宿場(étape)や関所(barrière d'octroi)が置かれ、温泉地(ville d'eaux)としても発展。
※東海道五十三次...Les cinquante-trois stations du Tokaido.
当時は京都〜東京間の500kmを15日間で歩いた。
箱根は日本橋から数えて10番目の宿場町で東京からの距離は約100km。
箱根は温泉地として古くから人気があり、そのため東海道の宿場町として栄えた。
現在は20の温泉が営まれている。
箱根宿は江戸から数えて10番目の宿場(ville d'étape)であり、標高725mという東海道五十三次内で最も高い場所に置かれたため、幕府も宿場の維持に苦心した。
Hakone est dixième ville d'épate et ça se trouve le plus haute altitude 725m, donc Bakufu(shogounat / gouvernement) se donnait du mal au maintien de cette ville.
標高は、箱根湯本駅(115m)、強羅駅(550m)、大涌谷(1044m)、芦ノ湖(723m)、そして箱根最高峰の神山(1438m)。
- 箱根とエヴァンゲリオン
-
「新世紀エヴァンゲリオン」は、1995年から放送が始まった90年代の第3次アニメブームのきっかけとなった作品。
未曾有の大災害の後、再建不能となった首都東京の代わりに第2新東京市として長野県松本市が暫定的に首都機能を担った。
そして第3新東京市として芦ノ湖北岸に首都建設を行う。という設定。
- 関所
barrière d'octroi -
1619年、箱根関所が現在の場所に置かれた。
徳川幕府は全国53箇所余りに関所を設けたが、その中でも中山道の木曽福島(長野県)、碓氷(うすい=群馬県)、東海道の新居(静岡県)、そして箱根を重要な関所として位置付けた。
一般的に「入鉄砲」と「出女」を取り締まったが、箱根関所では「入鉄砲」の取り締まりは行われておらず、「出女」を厳しく取り締まった。
交通の要衝(nœud de communication)に設置され、徴税(perception)や検問(le contrôle)をするための施設。
La barrière d'octroi est l'établissement construit au nœud de communication pour la perception et le contrôle.
中央で発生した謀反(révolte)の関係者の逃亡(fuite)を阻止し、政府に不都合な情報が関所外に漏れることを防ぐ、情報統制の役割も果たした。
Quand la révolte se passe, la barrière bloque la fuite de rebelle.
中世に入ると、武士や有力寺社などが独自に関所を設置し、通行税を徴収した。
Au moyen-âge, Bushi et des grands temples ont construit des barrière d'octroi particulière pour la perception.
ただし、関所を設置した勢力は通行税を納めた通行者に対して通行の安全を保障する義務を負った。
Mais des gens qui construit la barrière d'octroi, ils doivent protéger des passants qui payent du péage.
戦国時代には各地の戦国大名が一円支配を強めた為、関所は減少していった。
A la période de guerres civiles intestines, des seigneurs locaux gouvernait chaque fief donc la barrière d'octroi a diminué.
江戸時代になると、再度関所の設置が盛んとなり、同時に五街道が整備された。
A l'époque Edo, ça augmentait encore.
また、近世の関所は「入鉄砲と出女」を検問する場所とされていた。
入鉄砲とは、江戸の治安を守る為、外から武器が入ってくるのを取り締まった。
出女とは、江戸屋敷に人質として置かれた大名の妻女が領国に脱出するのを防ぐため。
「入鉄砲と出女」=「Des fusils entrent et des femmes sortent」
Bakufu surveillait l'arme qui entre au centre ville.
Bakufu surveillait la femme de seigneur qui fuit, car elle est l'otage.
関所は1869年に明治政府によって廃止された。
La barrière d'octroi a été aboli en 1869 par nouveau gouvernement Meiji.
- 箱根駅伝
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毎年1月2日と翌3日にかけて、東京から箱根間の往復の順位を出場20大学で決める大会。
1920年の第1回大会は「アメリカ大陸横断レース」の代表選考会という位置づけで2月14日に行われた。
一説によると、古来の飛脚制度(facteur)をもとに、手紙(letter)に見立てた襷(cordon)を、東京から宿場のあった鶴見(川崎宿)、戸塚(戸塚宿)、平塚(平塚宿)、小田原(小田原宿)で引継ぎ、箱根町郵便局(箱根宿)まで届ける観光イベントだった。
各チーム10名が往路(1区~5区)、復路(6区~10区)で襷を繋ぐ。
そして、観光客の減少する冬季に宿泊客を呼び込むために2日間かけて開催されたと言われている。
出場大学が関東圏で、東京・箱根間往復の為、当初は関東地方で人気を博したが、1987年のテレビ放送以降、正月の風物詩として全国的に注目されるようになった。
往路は、1区から5区まで、東京都千代田区大手町読売新聞東京本社ビル前から、鶴見、戸塚、平塚、小田原を経て神奈川県足柄下郡箱根町芦ノ湖までで、107.5km、復路は6区から10区までの109.6km、合計217.1kmのコース。
- 箱根登山鉄道
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1919年に開業し、小田原駅から強羅駅間の15km・11駅を行き来する。
日本一の急勾配(pente le plus raide au Japon)を通る列車としても知られ、その様な環境下においてもケーブル(câble)に頼らない普通鉄道としても有名。
建設に当たって、スイスのレーティッシュ鉄道(Chemins de fer rhétiques en Suisse)を参考にしており、1979年に両社は姉妹鉄道提携(en collaboration)を結んでいる。
日本一の急勾配は80‰(par mille)で、これは1,000m進むと高低差が80mになる計算。
つまり、1m進むと高低差が8cmになる。
Avancer 1m, monter 1cm.
車両1両の前後端で約1mの差が出る。
ちなみに、世界一はスイスのピラトゥス鉄道(Pilatusbabn)で480‰、1m進むと48cm登る計算。
急勾配を登る為にスイッチバック(zigzag)方式を取っており、運転手(conducteur)と車掌(contrôleur)が入れ替わる様子も見ることができる。
スイッチバック方式により、線路敷設工事の簡略化やトンネル掘削作業の省略ができる。
On peut simplifier le travaux pour poser une voie ferrée et pour percer un tunnel en montagne.
箱根湯本から強羅までの箱根登山鉄道は、空いていれば進行方向左窓側が良い。
大涌谷
vallée
- 箱根火山ができるまで
- Il y a entre 400 milles ans et 240 milles ans
- いくつもの成層火山ができた。
- Il y a entre 230 milles ans et 130 milles ans
- 大規模な噴火が繰り返し起こり、カルデラと外輪山ができた。
- Il y a entre 130 milles ans et 80 milles ans
- カルデラの中に屏風山などの中央火山丘ができた。
- Il y a entre 80 milles ans et 40 milles ans
- 爆発的な噴火が繰り返し起こり、大規模な火砕流の噴火も起こった。
- Il y a 40 milles ans
- カルデラの中に神山などの中央火口丘ができた。
- Il y a 3 milles ans
- 神山が崩れて大涌谷と芦ノ湖ができ、その後冠ヶ岳が誕生。
-
大涌谷では古くから硫黄の採掘が行われていた。
硫黄はさまざまな化学製品の原料として重要だが、現在は石油精製の過程で回収された硫黄が用いられ、火山から採掘されることはほとんどなくなり、大涌谷でも硫黄の採掘は行われていない。
硫黄はそのまま殺虫剤(l'insecticide)や、蛇除けの薬剤として販売される。
箱根火山の地下10kmより深いところにマグマがあり、その上部にはマグマから供給された火山ガスや熱水のたまる場所があると考えられている。
以前は「大地獄(Le grand enfer)」や「地獄谷(La vallée d'enfer)」と呼ばれていたが、1873年の明治天皇皇后のご訪問を前に現在の「大涌谷」へと改名。
Le grand enfer et la vallée d'enfer portent malheur.
※「涌く」= jaillir
1960年に箱根ロープウェー(le téléphérique)が運転開始し、観光の利便性が向上。
噴煙(fumée volcanique)や硫黄(le soufre)を見ることが出来る。
2015年4月末から箱根火山を震源とする火山性地震(tremblement de terre volcanique)が増加。
2015年5月に小規模な噴火(2001年以来14年ぶりの噴気)が確認され、2016年7月まで立ち入り禁止。
2019年5月、噴火警戒レベル2に指定。
ロープウェー運転停止し、代わりにバス路線にて運行。
2019年10月、噴火警戒レベル1に引き下げられ、ロープウェー全線再開。
大涌谷周辺では、人体に有害な火山性ガス
硫化水素ガス(Le sulfure d'hydrogène)
二酸化硫黄(Le dioxyde de soufre)
が噴出している為、臭いが強い時や目・鼻・喉に刺激を感じる時は退避する。
Si vous sentez mal aux yeux, au nez, et à la gorge, retournez l'intérieur de bâtiment.
特に、喘息の方、呼吸器系に異常のある方、心臓に異常のある方、体調の優れない方は注意。
Surtout, asthmatique[as-ma-tik], cardiaque, la maladie respiratoire, et quelqu'un n'est pas en forme. - 噴気地帯
-
豊富な自然噴気の他30本余りの掘削井戸(la fosse)からの熱噴気と地下水を混合して温泉が造成される。
噴気を減少させる目的で人工的な噴出口の掘削(le forage)が行われる。
ボーリング掘削孔は閉塞しやすく追加掘削も行われる。
1930年、大涌谷の噴気を利用して温泉を造成する箱根温泉供給株式会社が発足。
泉源が無かった仙石原や強羅などの旅館への配湯を開始した。 - 噴気ガス
-
1960年代、地質調査所(la géologie)による調査結果
噴出温度95度〜143度
- 水(成分の98%)
- 硫化水素...L'hydrogène sulfuré
- 二酸化炭素...Le bioxyde de carbone
- 亜硫酸ガス...L'anhydride sulfureux
- 水素...L'hydrogène
- 窒素...L'azote
- ヘリウム...L'hélium
- 黒たまご
-
地熱を利用して作られるゆで卵(l'oeuf dur)が名物で、温泉に含まれる硫黄と鉄分が結びついて黒い硫化鉄となって卵の殻に付着する。
- 80度の温泉水で60分茹でる。
-
殻に温泉地の成分である鉄分(fer)が付着。
これに硫化水素(un hydrogène sulfuré)が反応して硫化鉄(le sulfure de fer)となる。 - 黒くなったら釜へ移し、100度の蒸気で15分蒸す。
la durée de la vie se prolonge plus 7 ans.
平安時代に延命地蔵尊があったことに起因する。
7年の由来は、七福神にあやかり、縁起の良い数字だから。 - 噴火警戒レベル
- 噴火警戒レベルが運用されている火山は、富士山、箱根山、御嶽山、桜島、大雪山など49火山
- 芦ノ湖
-
面積7㎢、最大水深43.5m、水面標高724m、周囲19km。
3,100年前の噴火で起きた山体崩壊で湖尻を水源として仙石原方面へ流れていた川が堰き止められて(endiguer)できた淡水のカルデラ湖(lac de la caldaira d'eau douce)。
L'éruption phéatique et l'éboulement de montagne ont endigué le courant de la rivière de Kojiri vers Sengokuhara, et puis ce lac Ashi est né.
芦ノ湖から流れる用水は以前は農業用灌漑として利用されていたが、現在は強羅付近にある早川水力発電所の稼働にも使われている。
Autrefois, de l'eau de ce lac et cette rivière a été utilisé pour l'agriculture mais actuellement, c'est pour l'houille blanche qui se trouve à Gora.
最大水使用量は毎秒1.6㎥で、年間平均4,300万㎥の水が流れ出る。
Le volume d'eau est 1,6 mètres cubes toutes les secondes, et 43 millions mètres cubes par an.
ではそのような水量はどこから来るのか?
Le vaste volume d'eau vient d'où ?
そのほとんどは雨水と言われている。
C'est la pluie.
周囲の山々に降り注いだ雨が浸透して地下水となり、芦ノ湖湖底から湧き出る。
Il pleut autour de la montagne. La pluie pénétre sous-sol, et l'eau jaillit à profusion du font de lac.
757年に僧侶万巻が箱根神社を建立し、人々を苦しめていた九頭龍を調伏して守護神として祀った。
1911年に遊覧船による芦ノ湖観光(西武グループの伊豆箱根鉄道)が開始された。
1925年に日本で初めてブラックバス(L'achigan à petite bouche)が放流された。
1950年に箱根観光船(小田急グループ)の運行が開始される。
開業当時、客船としては世界初の双胴船(bateau à deux coques)を運行している伊豆箱根鉄道相手に苦戦したが、社長がアメリカのディズニーランドを視察(faire une inspection)してアイディアを起用し、海賊船(bateau pirate)として運行を開始すると瞬く間に人気を博した。 - 芦ノ湖沿岸施設
-
山のホテルは、1948年創業。
三菱の創業者、岩崎彌太郎の甥である岩崎小彌太郎男爵の別邸だった。
1911年に建てられるも、翌年に火災で焼失。
後に旧岩崎久彌邸を手がけたジョサイア・コンドル設計の建物が完成。
しかし、1923年の関東大震災で崩壊。
翌年、コンドル設計の建物を再現する形で木造に建て替え。
162㎡の土地に和館などを増築。
1935年には敷地内にゴルフコースも新設。
戦後「これからは観光に力を入れるべきだ。」と、財界のトップが中心となり、国際観光株式会社を設立。
同社は男爵の別邸を買い取り、ホテルとしてオープン。
年代 | 船名 | 定員 | 備考 | 退役船 |
---|---|---|---|
1950年~1964年 | 乙姫丸 | 小型船 パイオニアと入れ替わりに退役 |
|
1964年~1991年 | パイオニア | 海賊船 バーサと入れ替わりに退役 |
|
1980年~2007年 | ビクトリア | 海賊船 ビクトリーと入れ替わりに退役 |
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1987年~2013年 | ロワイヤル | 海賊船 ロワイヤルIIと入れ替わりに退役 |
|
1991年~2019年 | バーサ | 650名 | 海賊船 クイーン芦ノ湖と入れ替わりに退役 |
1996年~2008年 | フロンティア | 350名 | 外輪船 回遊航路廃止のため退役 |
現役船 | |||
2007年~ | ビクトリー | 500名 | 海賊船 |
2013年~ | ロワイヤルII | 565名 | 海賊船 |
2019年~ | クイーン芦ノ湖 | 541名 | 海賊船 |
- 箱根神社
-
まず、第5代孝昭天皇の御代(BC475年~BC393年/avant Jésus-Christ)、聖占仙人(Un ermite sacré)が箱根山の駒ヶ岳に神仙宮を開き、関東における山岳信仰の一大霊場となった。
757年、僧侶万巻(Mangan)が信託を受けて(Il a reçu l'oracle.)現在の地に社殿を建立し、箱根権現と称す。
平安時代初期(au début de 9ème siècle)、東海道が開通すると道中の安全祈願に立ち寄る人々によって知られる事となる。
801年、坂上田村麻呂は蝦夷征討の際に参詣して矢を奉献。
これに倣い、源頼義も11世紀に参詣して矢を献じた。
817年、嵯峨天皇によって駿河・伊豆・相模の荘園を寄進。
続いて鳥羽上皇も相模国酒匂郷48町を寄進。
平安末期(12世紀末)には中古三十六歌仙の歌人・相模が御神前で百首の和歌を献詠した。
鎌倉時代に源頼朝は箱根神社を深く信仰し、鎌倉幕府歴代将軍による参詣は幕府恒例行事となった。
執権北条氏の信仰も厚く、御成敗式目において日本第一の社として天下にその名を轟かせた。
江戸時代には徳川家康により1612年、大規模な社殿造営が行われた。
1618年、東海道が整備されると箱根宿や関所が設けられ、東西交通の要衝として交通安全祈願など、庶民信仰の聖地へと変わった。
明治初年(1868年)、神仏分離によって箱根権現は箱根神社と改称。
1873年には明治天皇・昭憲皇太后両陛下の御参拝をはじめ、現在に至るまで皇族をはじめ、民間も政財界人も含め年間2千万人を超える観光客を集めている。 - 九頭龍神社
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本宮は芦ノ湖畔、桃源台と箱根園の間に鎮座。
新宮は箱根神社脇、正面向かって右手に鎮座。
- 伝承では(Selon la tradition populaire)、万巻上人が芦ノ湖で暴れている龍を鎮め(il a apaisé un dragon qui se démenait au lac)、守護神として祀った(il l'a déifié comme le dieu tutélaire.)。
- 平和の鳥居
Torii de la paix -
湖上の鳥居は、1952年4月28日、サンフランシスコ平和条約(Le traité de San Francisco)発効により被占領解除となり日本の主権が回復した記念に建立された。
国際法上、この条約により日本と連合国(les Alliés)間の「戦争状態」終結。
Ce portail a été construit 28 avril 1952 en mémoire du traité de San Francisco.
Ça veut dire, le Japon s'est rétablir la souveraineté.
1964年、御鎮座1,200年と東京オリンピック開催を記念し、「平和」の扁額が掲げられた。
Et puis, la lettre "平和(La Paix)" a été mis en haut en mémoire de 1,200ème anniversaire et J.O.Tokyo en 1964.
平和の文字はサンフランシスコ平和条約締結時の吉田茂元首相のもの。
- 矢立杉
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坂上田村麻呂は、801年に東北鎮撫へ向かった。
Il est allé au nord pour pacifier cette région.
その途中、箱根の坂を超える時、箱根権現に参拝し、「表矢」をこの杉の木に献じて武運長久を祈願した。
Au chemin, il a prié sa victoire au sanctuaire Hakone et dédié une flèche à cet arbre.
田村麻呂はその後東北を平定したことから、後世の武将たちもそれに倣い戦勝を祈願した。
Après son travail, des gens à la postérité ont prié avant leur travaux.
樹齢は1,200年程。 - 安産杉
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遠い神代の昔、高天原から降臨された瓊瓊杵尊がこの地上で初めて出会った容姿端麗な木花咲耶姫と結婚されて、彦火火出見尊(ひこほほでみのみこと)が健やかに誕生された神話に由来。
Selon la mythologie japonaise, Un dieu Ninigi a rencontré une déesse Sakuya ici, et ils se sont marié et puis elle a trois fils.
古来、この大樹の根幹は健全なる母胎の象徴と見なされて、子孫繁栄を祈る子授け・安産の杉と信仰され、武家や庶民の間で「安産祈願は安産杉」と盛んに参拝が行われるようになった。
On considérait la forme de cet arbre de gros fût comme le symbole d'accouchement facile.
Donc des gens sont venus ici pour prier.
鎌倉幕府を開いた源頼朝は箱根神社を大変崇敬し、1182年夫人の北条政子が産気づくと、頼朝は使者を派遣して安産祈願を行った。
Quand la dame de Yoritomo MINAMOTO a senti les premières douleurs de l'accouchement, il a prié ici.
Le lendemain, elle a un fils qui deviendrait second Shogun.
翌日、二代将軍となる頼家が無事に産まれた。 - 芦ノ湖の「けけら木」
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芦ノ湖中にある湖底木のひとつ。
万巻上人が毒龍を調伏する祭に繋ぎ止めた木として縁結び祈願の由来ともなった。
Quand Mangan a soumis le dragon violent, il l'a attaché à cet arbre.
Donc ce sanctuaire est pour la relations d'amour aussi.
箱根の美術館
ポーラ美術館 | モネ、ルノワールなどの印象派絵画 | 9:00~17:00(16:30最終入館) | 年中無休 |
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彫刻の森美術館 | 野外彫刻やピカソの作品群 | 9:00~17:00(16:30最終入館) | 年中無休 |
岡田美術館 | 古代から近代までの日本・東洋の絵画や焼物と庭園 | 9:00~17:00(16:30最終入館) | 年末年始 |
箱根美術館 | 主に焼物 |
4月~11月=9:30~16:30(16:30最終入館) 12月~3月=9:30~16:00(15:30最終入館) |
木曜休館 |
箱根ガラスの森美術館 | ヴェネチアングラスや現代ガラス作品と庭園 | 10:00~17:30(17:00最終入館) | 1月中旬 |
箱根ドールハウス美術館 | ドールハウス |
4月~10月=10:00~17:30(17:00最終入館) 11月~3月=10:00~17:00(16:30最終入館) |
第2・第4火曜日 |
- 彫刻の森美術館
- Le musée en plein air de Hakone
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1969年に開館した野外彫刻を中心に展示する美術館。
敷地面積70,000㎡内に1,250点もの作品を擁する。
主な彫刻 | |||
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ヘンリー・ムーア | Henry Moore | イギリスの彫刻家 | 抽象化された人物像 |
パブロ・ピカソ | Pablo Picasso | スペインの画家 | キュビズム、シュルレアリスム |
ジャコモ・マンズー | Giacomo Manzù | イタリアの彫刻家 | サン・ピエトロ大聖堂の扉の彫刻 |
佐藤忠良 | さとうちゅうりょう | 日本の彫刻家 | 生き生きとした女性像をブロンズや木で表現 |
水井康雄 | みずいやすお | 日本の石像彫刻家 | パリを拠点に活動。抽象的な形を大規模な作品で表現 |